2012年6月19日火曜日

ひそかな溜息

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(新約聖書 ローマ8:26) 

  イエスのとりなしは、天において行われます。御霊のうめきは、祈る者の心から起こってきます。キリスト者が自分の必要なものを知らなくても、御霊はそのうめきをもって主のみ座に進み出るのです。「なぜなら、御霊は聖徒のために、神のみ旨にかなうとりなしをしてくださるからである」。誤った祈りが、御霊の力強いうめきに沈められてしまうことは、キリスト者にとっては誠にさいわいなことであります。

  御霊のうめきは、また神の子らの祈りでは、力でもあります。祈りに翼を与え、それを神の天にまで運び上げるものは、御霊のうめきにほかならないのです。「わたしたちが、自分の溜息をも認めない時にすら、神はわたしたちの叫びを聞かれる」(ロセニウス)

     出エジプト記14章15節に、エホバはモーセに「あなたは、なぜわたしに向かって叫ぶのか」と言っておられます。モーセは、イスラエルの民衆と共に紅海の前に立っています。彼らの背後にはエジプトの軍勢が迫り、前には紅海が行く手をはばんでいるのです。だれが考えても、この二つの事実は死を意味します。敵の手によって切り倒されるか、海の深みにおぼれてしまうか、二つに一つしかないのです。その時、モーセが神に向かって祈ったことは、聖書に書かれていません。他の時に、モーセが窮地に陥ったときには、彼が祈ったと、いつも書かれており、何のため彼が祈ったかもしるされています。しかしこの時には、そうではありません。それにもかかわらず、主はモーセの心からの叫びを聞きたもうたのであります。ひそかなる溜息が、神の耳に達し、それがちょうど、苦しんでいる子供の叫びのように、神に響いたのでした。神の子らの溜息は常に、叫びとなって神のもとに至るものです。まさしく、子らの苦しみそのものは、祈りのように神に響くのです。

     「キリスト者が、魂の静かなる苦悩とか、不安や無力の中にあって、思うがままに祈ることさえできない時にも、神はその人の心からの絶え間のない叫びを聞いておられる。まさしくこの叫びは非常に強いので、神はこの不安な子の叫び以外は、何も聞かれない」(ロセニウス)

 (「聖霊を信ず」フレデリック・ヴィスロフ著名尾耕作訳183〜184頁より引用)

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