2012年6月20日水曜日

エッケ・ホモ

自己放棄が欠けているために、多くの褒美が失われています。自己放棄のなかった所には、愛もなかったのです。なぜなら、犠牲とは、愛する喜びです。キリストはこの点で、わたしたちの大いなる模範であります。「彼は自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神のみ座の右に座するに至ったのである」(新約聖書 ヘブル12:2)

 「わたしたちのために、キリストは、ちりの中の虫となられた。それなのにあなたは誇るところがあろうか。キリストは枕する所さえなかった。それなのに、あなたはすべてを欲して足ることを知らない。キリストは、あなたのために命を与えてくださったのに、あなたは、隣人にパンのかけらを与えようとも欲していない。そして、キリストは敵のために祈られたのに、あなたは、友人のために祈ることさえしない。キリストの顔は、悪人の鉄拳で打たれたのに、あなたは渋面にも耐ええない。これはキリストの足跡に従うことであろうか。救い主キリストが恥をしのび苦難の道を歩まねばならなかったのに、あなたは肉欲の中で生きることを望みえようか。彼が、いばらのかんむりをかぶられたのに、あなたは黄金のかんむりをかむることを欲するのか」(アーント)。

 キリストのために、そして隣人のために、日々自分を否認することは、キリストの苦難にあずかることです。自分の家畜からおりる意志のある人だけが、強盗にあって負傷している者を安全に宿屋に連れて行くことができるのです。多くの人々はろばの上に心地よくすわっていて、傷ついた旅人に語りかけ、宿屋の方向を指示するだけであります。もし傷ついた人が指示された道を、足をひきずりながら歩み始めても、同情的に道の片側の方をろばに乗ったままで行き、断念しないようにと勇気づけるだけです。しかし、傷ついた人には力がなく前進できなくなって倒れ、ついに死んでしまいます。ろばの上の人は、そのまま乗り続けながら頭をふり、この世の強盗の残忍さについて真剣に考え始めるのであります。

 「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちを取り、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:5〜8)

 降りて下ることがキリストのみこころであります。だれも彼ほど高いみ座に上った人はいないし、彼ほど下に降りた人もありません。だれもついに彼より偉大な勝利を得た人はいません。したがって、いまだかつて、だれもイエスほど高く高揚された人もありません。降りて下ることを拒む人は、決して勝利を収めないでしょう。神は、自分をひくくするのを拒む人を、決して高くしたまいません。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである」(1ペテロ4:13)地上の生活でひくければひくいほど、ますます栄光において、より高くされるのであります。

 (昨日に引き続き「聖霊を信ず」の223〜225頁からの引用です。ああ、私たちは何と安易に人の苦しみをになっているつもりで、人を死なしめていることでしょうか。しかし、ここに一人の真実なお方がいらっしゃるのです。エッケ・ホモ「この人を見よ」です。)

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