2012年6月7日木曜日

とりなしの祈りの確信とその根拠(上)

カルニアの花を知人からいただいて
あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っている・・・(新約聖書 ピリピ1:19)

 ポーロ・S・リースは、上述のみことばは、パウロが二重の確信、すなわち、主にある友が祈っているという確信と、主イエスが肉体をとってこの世におられた時に持っておられた、そして今や、栄光の御座から与えられる、その同じ御霊が常に絶え間なく力づけられるという確信の中にいたのだと論じて、さらに次のように述べる。

 パウロほど熱心にとりなしの祈り——他の人のために祈る祈り——の力を信じた人はおそらくほかにいないのではなかろうか。他の人たちのための愛の配慮としてとりなしの祈りを実践した者としてパウロはそれを信じていたし、また、他の人たちのパウロに対する思いの現われとしてのとりなしの祈りによって益を受けた者として、それを信じていた。もし私たちがもっと強くこのとりなしの祈りの力を信じていたら、今よりももっととりなしの祈りをしているはずである。そして、とりなしの祈りをする救い主の教会として、今よりはるかに強力な、祈りと力の織りなす網目模様が形成されていくことであろう。

 私にはよく分からない
 なぜ遠くの友を思わせられるのか
 私の記憶の中にいとも速やかに割り込んでくるのはなぜか
 きっと、私が祈らなければならないことがあるに違いない
 ちょうどその時、友は激しい戦いに直面しているかもしれない
 大変な弱さを経験しているかもしれない
 勇気を失っているかもしれない
 暗黒の中をさまよっているかもしれない
 正しいことが何か、見失っているかもしれない・・・・
 とにかく彼は私の祈りを必要としているのだ
 だから私は祈る

 パウロの確信のよりどころとなっているもう一つの面——それによて彼の平静な心は砕かれずに支えられている——は、聖霊の働きである。英欽定訳聖書はこれを、「イエス・キリストの御霊の供給」※と、訳している。この「供給」と訳される原語は、宴(うたげ)の席を設けて食事の用意をするだけでなく、夕べの楽しみを本当の楽しみとするため歌い手を頼む金持ちの配慮を描くために用いられる。それゆえ、E.F.スコットも言っているように、「イエス・キリストの御霊の豊かな備え」と訳すことができる。

 もしも、「聖霊ご自身が『供給』ということであるのか」とか、「父なる神によって、子なる神を通して与えられる聖霊は、満ち満ちておられるご自身によって、私たちの必要をすべてあふれるばかりに満たしてくださる方であるということなのか」と問われるなら、両方の答が許されるというのが答である。両方の解釈が新約聖書の事実である。

 「御霊の豊かな備え!」それこそ使徒パウロの体験であった。私たちがそれを経験しているかどうかということが問題なのである。

(『私を強くしてくださる方によって——ピリピ人への手紙講解——』ポーロ・S・リース著増田誉雄訳36〜37頁より引用。※For I know that this shall turn to my salvation through your prayer, and the supply of the Spirit of Jesus Christ, 今朝次のような祈りの要請が届いた。Ron called today and asked that I send you all a note asking you to pray extra for him. He has not been feeling well since he arrived in Nigeria. He had some prostate issues that has resulted in a bladder and a kidney infection (unpleasant details omitted). Ronはナイジェリアにいるウイックリフの宣教師である。そして午前もう一つの緊急の祈りの要請が川崎の主にある兄弟から来た。主は今日二つの緊急の祈りの課題を与えられた。表題の聖句はずっとこのところ心に留まっていたものである。)

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