2014年6月11日水曜日

聖霊降臨(中)

琵琶湖東岸から湖西比良山系を望む(2014.6.7)※
エペソ書1章3節を見ると、御霊の賜物はもうすでに今ここにある、ということがわかります。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

と、あります。 主の賜物はキリストにある。私たちにはもうすでにわれわれのものとなっている。

しかし、その賜物は個人的に自分のものとして受け取る段階に来なければなりません。多くの人々は、それでは聖霊という賜物を個人的に受け取る前提条件はいったい何でしょうか(と、問われるでしょう)。これに答えるために二つの点についてちょっと分けて考えましょうか。第一番目、注がれた御霊。二番目、内住の御霊です。

注がれた御霊について、もう一回使徒行伝2章に戻りますと、次のように書かれています。使徒行伝2章の33節。

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。 

36節。

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 

このみことばの中には、3つのことがふくまれています。それは第一番目、イエス様が救いをなし終えて高く引き上げられたこと。二番目、イエス様は約束の御霊をお受けしたこと。三番目、(イエス様は)この約束の御霊を信ずる者に降り注がられたこと。この3つのことがふくまれています。なぜ御霊の注ぎがあったか。このみことばを見るとはっきりわかります。弟子たちが祈ったからではない。イエス様が高く引き上げられ、御霊をお受けになったからです。われわれの場合もこの事実が当てはまるのではないでしょうか。

もし私たちがほんとうに救われているなら、すでに御霊はわれわれの上に注がれているのであり、あれをやり、これをやるから御霊を受けるのではありません。主イエスが高く引き上げられたことにより御霊が注がれたのです。

われわれの罪がいったいどうして赦されたのでしょうか。私たちが熱心だったからでしょうか。私たちが自分の罪を告白したからでしょうか。決してそうではありません。主イエスがわれわれの罪を引き受けて、われわれの刑罰の身代わりに十字架の上で亡くなってくださったからです。

私たちはなぜ新しいいのちを受けることができたのでしょうか。 集会に集まったからでしょうか。聖書を読んだからでしょうか。決してそうではありません。イエス様がよみがえってくださったからです。

なぜイエス様を信ずる者全部がキリストにあって御霊様を受けているのでしょうか。あのこと、このことをやったからでしょうか。または、あのことこのことをやめたからでしょうか。イエ、そうではありません。私たちのイエス様が高く引き上げられたからです。御霊が降り注がれたことは、イエス様が高く引き上げられた証拠です。

五旬節はイエス様が、主の主、王の王として、諸々の天よりも高く引き上げられた証拠です。あのナザレのイエスはただ単に自らの考えで殉教したのか、それとも全人類の救い主として十字架におかかりになったのか、どうしたら知ることができるのでしょうか。われわれの上に注がれた御霊によってそれがわかります。

イエス様が高く引き上げられたがゆえに、私たちはイエス様を受け入れることによって、聖霊を受けました。イエス様を受け入れた者はみな御霊を受けています。私たちはどのようにして罪の赦しをいただいたのでしょうか。集会に集まり、聖書を読み、熱心に祈ったために救いが与えられたのではありません。イエス様が血潮を流してくださったから、罪が赦され、救われたのです。ヘブル人への手紙9章22節。旧約聖書の引用されている箇所です。血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない。

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

救いにいたるただ一つの道は、結局、イエス様の流された血です。イエス様の血はわれわれの罪のために流されたのだ、ということを知り、認め、それを心から感謝したとき救われたのです。

御霊も同じ方法で受け入れたのです。私たちはイエス様が高く引き上げられたことを信じました。そのとき、私たちは御霊をお受けしたのです。もし私たちがまことの救われた者であり、イエス様の血が流されていて、なお罪が赦されていないということはあり得ません。同じようにイエス様がすでに高められておられるにもかかわらず、私たちが救われた者として、聖霊を受けていないということもあり得ないことです。

そう言っても私は何も御霊について経験していないので、立場としてはすべてが与えられているとしても、実際には御霊を持っているとは言えないと言うかもしれません。もちろん私たちはそれらを個人的にわがものとして受け取らなければならない。この素晴らしい賜物を個人的に自分のものとして受け取るには、主なる神の永遠の事実に私たちの心の目が開か(れ)なければなりません。私たちは、イエス様がもうすでにすべてを成し遂げられたことを感謝したとき、救いをいただきました。もし、私たちがイエス様の高められたことを見、それを感謝するなら、御霊の力を経験するはずです。

イエス様はわれわれのためにご自分のいのちをささげ尽くされたのです。この事実を心の目で見るとき、救いのためにもがくことをやめるはずです。そして、主の救いに自分の身をゆだね、豊かな赦しをいただくことができます。イエス様は高められ、御霊を教会の上に降り注がれました。もし、私たちがこの事実を心の目で見るなら、「御霊を下さい」と叫び求める努力をやめるでしょう。もし、私たちが聖書に記されている主なる神の永遠の事実を上からの光によって、啓示によって知らされると、主はわれわれに信仰を与えてくださいます。そして、この信仰により神の事実はわれわれのものとなります。

ある若いキリスト者があるとき、「主よ、御霊を私に下さい」と祈り始めましたが、すぐそれは誤りであると気がつき、「主よ、もうすでに私のうちに御霊を与えてくださったことを感謝します」と祈ったところ、御霊の力を内に経験し、その者の生活が完全に変わって来たということです。

(※気候変動激しい日々である。「雲間から 光溢れて 湖上に 御霊もまた かくの如きか」)

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