2023年2月25日土曜日

受肉者耶蘇(9)少年イエスの挿話

6 過越の祝いにおける少年イエス

 イエスはラビの大学には入学されなかったが、ただ一回たいせつな時期に、エルサレムの『ミドラシュの家』で、ラビたちの足下に座られたことがありました。ユダヤにおいては少年が十二歳に達すれば『律法の子』と認められ、イスラエル人としての特権と責任とをことごとく与えられ、過越の祝いにも列席することができたのです。

 毎年アビブまたはニサンとも言う、すなわち四月に相当する月に、エジプトの奴隷の境遇よりイスラエルが救い出された記念に行われる祝いがありました。それに列席のため、エルサレムを目指して南へ旅する巡礼の一団に加わって、イエスがヨセフおよびマリヤと共に出発されたのは、その前年の夏をもって十二歳に達されたはずの紀元八年であったことでしょう。

 初めて祝いの列に加わることが許されたその齢の少年の歓喜や、彼らがついに一歩昔ながらの神の都城に踏み込んで、目の当たりに荘厳な神殿を仰いだときの驚嘆の情を写したものが詩篇第百二十二篇(※)であります。この思い出多き季節に際会された少年イエスの感慨もまたこのようなものであったことでしょう。ヨセフやマリヤによって幾たびとなく神の都やシオンの山の物語を聞かされつつ、長い年月、自らこれに接する機会を待ち焦がれておられたことでしょう。ところが今その願いが達せられたのであります。

※人々が私に、
 「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、
 私は喜んだ。
 エルサレムよ。
 私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。
 エルサレム、それは、
 よくまとめられた町として建てられている。
 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。
 イスラエルのあかしとして、
 主の御名に感謝するために。
 そこには、さばきの座、
 ダビデの家の王座があったからだ。

 エルサレムの平和のために祈れ。
 「おまえを愛する人々が栄えるように。
  おまえの城壁のうちには、平和があるように。
  おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。
 「おまえのうちに平和があるように。」
 私たちの神、主の家のために、
 私はおまえの繁栄を求めよう。

7 エルサレムへ残留

 聖き少年にとって、この厳粛な一週間はさながら不思議な夢を見られる心地でありました。印象鮮やかな実物にその目をもてなされ、また耳に聞かれる所をもってその渇きを癒されました。祝い果ててガリラヤの一団も故郷をあとに出発し、ヨセフ、マリヤもまたイエスを取り残したとも気づかず一同と共に旅路に上りました。

 人に埋まる都の雑踏の間にはこのような災難は起こり易いはずです。ことに男子は男子、婦人は婦人と別々の団体を作って旅をする場合には、小児は両親いずれかの列に加わっておられるものと思い合っていました。一日の行程を終わって一隊が泊まりにつこうと言うときになって彼らは初めて気がつきました。

「ラビの足下にて発見」

 中途に取り残したものと心得た彼らは、尋ね尋ねてもと来た道へと引き返したけれども、エルサレムに来ても、イエスの姿を見つけられませんでした。三日の後にようやく『ミドラシュの家』で、ラビの足下に座りつつ、彼らの説に耳を傾けては、また質問を試みて、単純にしてこの世ならざる知識に彼らを驚駭感嘆せしめておられる所に尋ね当てたのです。

 その聡明な理解力と応答とに驚きながら、厳粛謹直な教師らは、この不思議な少年は何者なるかを自ら悟り得たにちがいありません。イウセミアスは『ゆえに願わくは我らも、我らの間に救い主の在(いま)すを認め、その教える所に心を用いながら、心から主を畏れる者となれますように』と言っています。

「神との関係ならびにメシヤとしての職分の発見」

 イエスの両親は驚いた。マリヤは失った宝を発見した喜びに、威儀堂々たる場所柄をも打ち忘れつつ、柔らかな調子で『まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを探し回っていたのです』と叱りました。イエスは今、さながら心も遠く漂うように、思いに沈みつつ『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか』(新約聖書 ルカの福音書2章29節)とお答えになりました。このことばこそ、恵み深い私たちの主のみことばの記録に残る第一のものであります。

 ヨセフとマリヤがこれに当惑したのももっともであります。これぞ後の生涯の主調であるものであります。爾来イエスは地上において何人をもその父と仰せられず、また何人をも親戚と思し召しされず、人の子の間にあって唯一つの事業、すなわち彼らを贖い出すべき大事業をのみ有することを意識せられ、寤寐(ごび)の間にも止むときなく、衰えられることなく、退転することなく、このことを思い続けられました。

8 ナザレへ帰郷

 しかしイエスは静かにナザレに帰り、再び単純にして律儀な生涯を営まれたのであります。この後十八カ年、自ら何者にして何のため世に来れるかを鮮やかに意識しつつもなお、この驚くべき秘密を胸に秘めて、時期の到来するまでは、ことばの端にも所作にもあらわさず、槌と鋸とに労働を継続せられたのであります。しかもその年月は無益に失われたのではありません。神の摂理の下にあって、事業を完成されるのに必要な準備の時期となりました。

 このようにして自己の降誕を預言し、またその贖いを予め現わす己についての聖書の記事に思いを潜め、また遠くその慧眼を馳せ、温かい心をそそいではやがて救おうとされる世界を間断なく注意されたのであります。ナザレの魯鈍の人の目にはイエスは一個の同郷人に過ぎませんでした。しかしイエスにとって彼らは、その父の家を迷い出た子供でありました。ゆえにその間に伍される間に、彼らを熱心に研究し、その思想に分け入って、その誘惑に心を潜め、その悲しみをともにしつつ、時至って彼らの心を洞察し、その必要に敏く応ずる救い主として、彼らに教えるに足るべき用意を整えられたのであります。

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