2023年2月23日木曜日

受肉者耶蘇(7)イエスの郷里

第二章 密かに忍ばれる30年

「恥ずべき十字架の慕わしきかな
  ここに主は罪人との誹謗を受け給えり、
 また第三日の来るまで臥し給いし
  その墓場の慕わしきかな。
 されど主自ら同じ苦痛を忍び、
  また同じ険しき道を歩み、
 ナザレの村の大工として、
  神のための賤しき業を努め給いぬ。」
                             Walter C. Smith

1 ガリラヤ 

「その美観」

 その昔、ナフタリ、アセル、ゼブルン、イッサカルの領地であるこのガリラヤは、イスラエル国中もっとも美しい地方でありました。泉、小川に恵まれ、丘は緑滴るばかり、谷は豊穣な国土でありました。『雅歌』の作者の故国であって、彼の秀麗な叙事詩に慕わしいこの地方の麗しい光景、駘蕩(たいとう)にして心も溶かされるばかりの様が迫ってきます。花爛漫たる葡萄の園、薔薇や百合の香り漂う谷間、枝もたわわに実る林檎の大樹、柘榴の畑、牧場に草を食み、また真昼には木陰に憩う羊の群れ、牧羊者の天幕のそばで戯れる小羊、岩間に巣を営む鴿(はと)、葡萄畑を荒らす小狐、山を跳ね回る子鹿、どれひとつとして美わしからぬものはありません。晨(あさ)の涼しい風は吸うべく、春の息は胸に満たすべく、甘松香、没薬、乳香、曼荼羅華(まんだらげ)のゆかしい薫り、風に誘われるレバノン山からの芳ばしい香りは馥郁(ふくいく)と鼻を掠(かす)めます。または葡萄園丁の鄙歌(ひなうた)や、蜂の羽ばたき、羊や山羊の啼く音、山鳩の忍びなく声、小川のせせらぎ、草葉を潜る囁きは、耳に心地よく聞かれるのでありました。

「その肥沃さ」

 国家衰亡廃頽の悲運に会っても、主がここに日を送られる頃には、ガリラヤはなおその魅力に満ちる面影を止めておりました。ラビ・ヨナの記す所によれば、当時なお、聖地は『乳と蜜の流れる地』と賛辞を与えられるほど美わしく快い豊穣な土地でありました。

「人口の稠密」

 また豊穣な土地にふさわしく、たくさんの人々を有しておりました。ラビ・エリアザルは言います。『イスラエルの国において一人の小児を養うよりは、ガリラヤにおいてオリーヴ樹の一叢(ひとむら)を育てるはさらに容易なり』と。ユダヤ歴史家ヨセフスはまた言います。『この地方は肥沃、豊穣にして、あらゆる果樹に適せり。而して収穫夥(おびただ)しきがため如何に耕作を怠る者もこれに励まされざるを得ず。したがって住民の開墾好く行き届き、荒蕪(こうぶ)の地を見ず。随所に都会あり、豊穣なるが故にいずれの村落も人口稠密にして、最も小さき村もなお人口一万五千を下らず』と。これによって計算すれば当時ガリラヤにおける町村は二百四個所であったので、人口正に三百万を越えたこととなります。しかし数百平方マイルに過ぎない地方にこの夥しい人口を支え得たとはいささか信じ難いが、たとえ如何に内輪に見積もっても、なお多数の人口であったにちがいありません。ユダヤ戦争の間にヨセフ自ら一万の壮丁をガリラヤから募集し得たと言っています。なお福音書を読むにあたって、イエスの赴かれる所、いずこにあってもしばらくの間にたちまち群衆が蝟集(いしゅう)し来るを注意せざるを得ません。(新約聖書 マルコの福音書1章45節、2章4節、3章8節、6章31節、ルカ12章1節)

「異邦人の分子」

 ガリラヤはヘブル語のガリル、すなわち『囲繞(いにょう)』と言う意味で、元来はガリル・ハツゴイム、すなわち『異邦人の囲繞』(旧約聖書 イザヤ書9章1節)と称せられたのであります。砂漠をもって四方を囲まれたユダヤ州と異なり、種々の異教国民と境を接していましたーーすなわちフェニキヤ、デカポリス、サマリヤなどがこれであります。(略)

「ユダヤ州民の軽侮」

 このようであったにもかかわらず、なおガリラヤ人は傲慢なユダヤ州民には軽侮せられました。ユダヤ州はユダヤ人正統の住所で、イスラエル民族の神聖な公共施設の住所であります。首都エルサレム、神殿、サンヒドリン、大学者の所在地であります。彼らはこれを誇りとして、鄙びたガリラヤ人を侮蔑しました。彼らの無知はさながらことわざのようにして嘲られ、祝いの季節に彼らがエルサレムに上るごとに、その所作、衣服、言語の調子など市民の物笑の種でありました。彼らは強い喉音で話をするために、口を開くや否や、その郷里は露われました(新約聖書 マタイの福音書26章73節、マルコの福音書14章70節)。その喉音のなまりから時には滑稽極まる間違いを生じました。ガリラヤの一婦人がある時隣の人に『お出でなさい。バターをご馳走致しましょう』と言ったが、『獅子に食われなさい』と聞こえたと言います。ユダヤ州民がガリラヤ人を嘲るにはいささか妬みの意味もありました。ユダヤ州は土地がやせているのに引き換えてガリラヤは肥えているのが、彼らの妬みの原因でありました。(中略)ユダヤ州民の侮辱はもちろん謂(いわ)れのないことでありました。彼らのことわざには『ガリラヤから預言者は起こらない』(新約聖書 ヨハネの福音書 7章52節)と言ったけれど、事実はイスラエルの偉大な預言者にしてガリラヤ人なるもの数名に及んでいます。その生まれはギルアデのティシュべの出であったけれどもエリヤの活動の舞台はガリラヤであってその後継者アベル・メホラのエリシャの舞台もまたここでありました。後年に及んで女預言者アンナは言うまでもなく、また聖パウロはキリキヤのタルソに生まれたけれども、聖ジェロームのことばによればその両親はギスカラにおったガリラヤ人で、ローマに捕虜となって後、許されたものだと言います。さらに一層歴史上忘れるべからざる一事は、一度はユダヤ州民に侮辱され、嘲笑されたガリラヤ人が『われらの主イエス・キリストの尊き肉と血とをもって祝福され、聖別され、ここに祝福豊かなる御足の跡を印さんがために、処女マリヤより肉と血とをもって生まれ給える』地上において最も神聖な地方と崇められるに至ったことであります。ガリラヤは救い主に家庭を奉り、ユダヤはこれに十字架を供えたのであります。

2 ナザレ

 ガリラヤ連山の間、断崖急にエスドラエロンの平原に落ちる所に、まるい窪地があります。その北西の坂に群がるナザレの部落こそ、この聖なる幼子が『ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛され』(新約聖書 ルカの福音書2章52節)育たれた場所であります。ナザレの村民は、ガリラヤ内地の住民の間にすらも評判宜しからず、『ナザレから何の良いものが出るだろう』(新約聖書 ヨハネの福音書1章46節)とのことわざさえもありました。イエスがその伝道の中途にこの村を訪れて、会堂において説教されたときの彼らの行動によっても、その感情的な狂暴な性状が窺われます。しかし村民にこのような欠点あるにもかかわらず、ナザレは慕わしい土地であって、殉教者アントニナスがここを天の楽園に凝し、賛嘆おく能わざりし価値は十分であります。家屋は村を囲んだ山々から切りおろす純白の石灰石をもって建築しました。ユダヤ教聖典中、ささげものの酒に用いるべき葡萄の産地として『山上の白き町』と称するはこの外観から察してナザレの村を指すに違いありません。村は四方に聳え立つ山々に囲まれているけれども、一度その懸崖の頂に攀じ登れば、雄大なパノラマは眼前に開展するのであります。北にはレバノンの山脈および雲を戴くヘルモンの高峰烟波に霞み東にはヨルダンの渓谷並びにギルアデの諸山を展望すべく、南にはイスラエルの歴史に名ある古戦場エスドラエロンの平原、西にはカルメル山と地中海の閃くのとが、この一幅のパノラマに収められる光景であります。山の麓を『西の大道』すなわちダマス地中海沿岸諸港との間を往来する商船隊織るように辿るいわゆる『海への通路』廻り、南には商人の引きも切らず打ち続くエジプト街道と、祝いの近づく頃には巡礼の幾百団体が都へと喜び勇んで志すエルサレム街道が通じています。

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