2016年1月24日日曜日

私たちにとって未知の道筋は主にとっては明らかである

イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり(マルコ6・48)

 混乱のさなかにあって。私たちは自分のまわりで何が起こっているのか理解できず、事態がどちらの方向に向かっているか、またどうしたらよいかも話すことも出来ない時、私たちは眼前の事態を見通すことができないのですが、私たちには隠されていることも主からは隠されていないことを考えて、冷静に落ち着いて忍耐強くありましょう。 もし、主が私たちを盲目のうちに導くように選んでおられるなら、主におまかせしましょう。導きの実際と公正さは大したちがいはないのです。

 隠されていること。私たちに何の手がかりも見えず、神さまの啓示を部分的にでも理解できず、主の密やかな助言の前に立ちはだかっているベールを引き上げることもできず、主の道を隠している聖なる暗やみを見通したり、主の足跡がわからないで、大変深い主の公正さを踏み固めることができない時、こういう事態でさえ私たちの王から隠されていることであるなら十分ではないでしょうか。「私の父は、事の大小を問わず、私の耳に入れないでするようなことはありません。」(1サムエル20・2)「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」(ヨハネ5・20)

 私たちの王は私たちに何ごとも皆、いとも簡単に明らかにされ、大変明快になさるのです。主にとってはあらゆる私たちの疑問に答えられないことは何一つないでしょう。彼がなさらない時、私たちは彼を信頼し、彼が知っておられ、もし最上であるなら話したいとされたであろうことに満足できないのでしょうか。彼は私たちに言うべきことをたくさん持っておられますが、私たちがそれらに耐えられるまで待っておられるのです。

 私たちは私たちの罪でさえ主から隠されていることを喜ばないのですか。そうです、すべてのことをご存知の主はすべてを聖めることがおできになるし、そうなさりたいのです。彼は私たちが自分自身で目をそむけていることも、すべてお見通しで知っておられましたが、その罪を赦され、今も愛しておられます。

あなたは知らない。述べられたそれぞれの過去の時がどのようにからんでいるかを。

その嘆き、さもなくば喜び。希望、さもなくば恐れ。一つの偉大な愛のご計画のうちに。

私が夜通し、様々な方法によってあなたをどのように導いているかも

つねに雲一つない光の上に、そして日々に前進する道へと。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-24-unknown-paths-are-clear-to-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97188です。
 フランシス(リドレー・ハヴァガル)は優雅で美しく、晴れやかな顔色をし、明色の髪の毛の持ち主で生き生きとしていた。彼女の早熟ぶりは大変なもので、三歳ですらすら本を読み、四歳で聖書を、七歳で聖句を書き始めたほど、豊かないのちと精神力に満ちていたが、野外の木登りや壁崩しよりは、年上の兄姉たちが課題とした宿題に聞き耳を立ててドイツ語を習得することの方がよりすぐれていた。
 彼女は決して模範的な子どもではなかった。全く話しかけられることを嫌ったし、親切になされる忠告を毛嫌いしたものだ。また彼女は非常に繊細な神経の持ち主で、特に幼い時そうであったが、ちょっとした気質のゆえに、本を読んだり、説教を聞いたりすると、よく惨めさと改悛の情にさらされた。)

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