2016年1月5日火曜日

主が選ばれる

年賀状1
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり・・・(ヨハネ15・16)

 枝は自らぶどうの木を選ぶことはしない。ぶどうの木が枝を選ぶのである。それでキリストは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」と言われたのである。

 しかし自然の世界と心の世界との間には相違があり、人は自由の意志と選択力とを持ち、キリストを信じ、キリストを主と仰ぐことによって、はじめて枝になるのではなかろうかと言う人があるに違いない。この考えは決してまちがってはいないが、しかしそれは真実のある半面に過ぎない。

 ぶどうの木の戒めと主の教えは、キリストを信じる私たちのより深い他の半面を指し示している。もし主が私たちを選ばれなかったら、私たちはけっして主を選ぶことはない。私たちの選択は主の選択の結果で、主は私たちを支配しておられるのだ。ものの道理から言って、枝を造り選ぶのはぶどうの木の特権である。私たちの存在のすべては「恵みの選び」(ローマ11・5)のおかげである。

 もし私たちが枝のいのちのただ一つの源であり力であるぶどうの木としてのキリストを絶対的に信頼している枝としての私たち自身を知ろうと思ったら、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」という、この祝福された真理をよく味わうことが必要である。

 それではキリストはどのような考えでこのように言われたのであろうか。どんな目的のためにキリストがお選びになったかが枝によくわかってほしいものだ。主の選びを信じる枝は、枝の天命を達成する確信を見いだしてほしいものだ。

 ところで聖書の至るところに、この主の選びの教えの大きな目的が記されている。「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ8・29)これを「ぶどうの木の姿に似た枝にあらかじめ定められた」と言い直してみてもいい。また「父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たち」(1ペテロ1・2)などがその例である。

 一部の人々は「選び」の教義を濫用し、また一部の人々は濫用することを恐れるあまりに拒否してしまった。なぜならば彼らはこの教えの真意を看過したからである。彼らはこの教えを測り知れない奥義とのみ思い過ごし、この教えが啓示する目的や、クリスチャンの生涯にもたらされる祝福を受け入れることができなかったからである。

 主の選びの恵みがどんなに大きいものであるかを考えてみようではないか。ここでキリストは、私たちをその枝として選ぶ二重の目的を明らかにしておられる。その一つは私たちが地上の実を結ぶためであり、もう一つは私たちの父への祈りに力を与えるためである。キリストがこの目的のために選ばれたことを考えると、私たちは大きな確信を持つことができるのだ。

 それはこの目的を実行するために、キリストは私たちにきっと力をお与えになるからである。朽ちない実を結び、聞き入れられる祈りを祈ることは何という大きな確信を私たちに与えることであろうか。深くへりくだって主をほめたたえ、その恵みが必ず与えられることを信じて待てという主のみ声が今も聞こえて来るではないか。主は私たちがその任に耐えないとか、あるいは私たちをその任に耐えるようにすることがおできにならない場合は、私たちを選ぶことをなさらない。主の選びは、主が私たちの中にあって一切をなしてくださるというご自身自らの誓約のもとでなされたのだ。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。」と聖なるぶどうの木が私たちひとりひとりに語られるのを魂の静寂の中で聞き取ろうではないか。そして大胆に、「主よ、あなたの言われるとおりです。しかし私があなたを選んだのです。アーメン」とあえて申しあげようではないか。

祈り
「主よ。『わたしがあなたがたを選んだのです』と言われたみことばの意味を私にお教えください。あなたは私の上にあなたのみこころを注がれ、私に朽ちない実を結ばせ、かなえられる祈りを祈るために私をお選びになりました。あなたのこの永遠の目的の中に私の魂は安らぎ、そして申し上げます。主よ、私をお選びになったとおりに、私はきっといたします。また必ずすることができます。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』アンドリュー・マーレー著安部赳夫訳131〜135頁より引用。)

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