2016年1月30日土曜日

「幾重にも折り畳まれた」報酬※

王はどうして、そのような報酬を、この私にしてくださらなければならないのでしょうか。(2サムエル19・36)

 バルジライはダビデ王が王都から追放され、マハナイムにいた間、王を養っていました。ダビデが戦に勝利し都にもどる日が来た時、王はバルジライに言いました。「私といっしょに渡って行ってください。エルサレムで私のもとであなたを養いたいのです」(2サムエル19・33)

 これは報酬でありました。しかし、王に仕えたこの老人にとって、あまりにも大きな特権であり喜びであったに違いありません。そうです。婦人たちのように、持てるもので天から下られた王に仕えていた者たちにとって、王の近くに侍ることはどんなにか継続する喜びであったに違いないからです。

 人はその奉仕による分け前をどれだけか求めたことがあったでしょうか。なぜ王は私にそのような報酬をくださらなければならないのでしょう。なぜあなたのしもべがあなたとともに王都に住めるのでしょうか。なぜなら、主の愛と報酬との間には美しい釣り合いがあるとしても、働きと報酬の間には大変な不釣り合いがあるからです。

 しかしそのうちには美しいまでの一致があるのです。主に食事を与えた人々にとっては、永続的な喜びというごちそう。飲み水を与えた人々にとっては、主の喜びという川。身寄りのない人を泊まらせた人々には、天の父の住まい。。裸の人に着せる物を与えた人々には、白い衣。病人を訪ねた人々には、いのちともはや苦しみのない木。囚人を訪れに来た人々には、栄光ある自由。主のためにその悲しみ苦しみをともにすることに満足する人々にとっては、繰り返される約束「私といっしょに」(2サムエル19・33他)をとおして与えられるすべての冠であります。なぜこんなものがすべて与えられるのでしょうか。私たちがそのことを永遠に求めつづけるためだと思います。

栄光の王に私は何をさしだしましょうか

私はあなたからいただいたもの以外持っておりません。

私がさしだすものは、あなたが私にもどされ、御手によって変えられ

それぞれ価値のないものが宝石や金に変えられたのです。

そしてあなたの祝福によって1000倍に増えました。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-30-a-limitless-fold-return/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97194です。※標題の原語はA "Limitless Fold" Returnであるが文意をとり冒頭の訳にした。

 ウェールズでは、日曜礼拝に参加するのに困らない程度の十分なウェールズ語を朴訥な少女から習い覚えた。海岸に出れば船舶のことを知ろうと夢中になった。また本を読んで独学で和声学を学んだ。さらに彼女は司祭の聖書クラスに最年少のこどもとともに参加することに満足し、よく、司祭の教えから引き出される喜びや利益を参考にしたりしていた。)

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