2016年1月27日水曜日

神が私たちの代りとされる時

皆さんをお迎えするクリスマスローズ※

剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。――万軍の主の御告げ。――牧者を打ち殺せ。(ゼカリヤ13・7)

 無能な敵の手でなく、全能の万軍の主の鋭い剣が羊飼いを打つために振り上げられた。このお方は私たちの飼い主なる王、偉大なるお方、中心となるお方、善なるお方(原語で言えば美なるお方)である。

「神による打擲(ちょうちゃ)、殴打」ということばを考えてみよ。
それらが推し量ることのできない激情、しかも私たちが愛しているイエス様の激情、真っ暗い激情の深さだけを推し量ることができる。「イエス様は神様に打たれた」

 私たちはそのことばを口にする時、これに比べればもはや他のどんな悲しみも私たちを動かさないほどに、感情は激しないだろうか。萎縮してそこから離れることがないようにしよう。むしろ今でも、この恐ろしい鞭打ちが、まことに、十字架にかかられているお方を見つめて、私たちの心のうちに「さあ、あなたがたの王です。」(ヨハネ19・14)というささやきであったことを、聖霊が少しでも示してくださるように求めよう。私たちの愛する主イエス・キリストがご自身と父なる神様の愛であることを示してくださるようにと祈り求めよう。

 私たちは遠く離れて立ち、頭を垂れ、ふるえる愛で沈黙し得るのみだ。その時、イエス様の上にしなる恐ろしい鞭は聞いている百人隊を通してこだまとなって降りて来る。一方、癒された人々の心の動悸は答える、「わたしのためだ! わたしのためだ!」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。」(イザヤ63・3)

わたしはあなたがたのために痛めつけられた

あなたがたの舌が発することのできる

もっともひどい苦悶の何よりもひどい苦痛で

あなたがたを地獄から救い出すために

わたしはあなたがたのために痛めつけられた

あなたがたは私のために何に耐えることができるか

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-27-when-god-meets-our-substitute/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97191です。やはり難解な個所でした。しかし十字架をとおして語ろうとするハヴァガルの霊想は英文を越えて私たちの心の中心に伝わってくる思いがします。

 フランシスが12歳の誕生日を迎える少し前、彼女の母は主のみもとに召されていった。フランシスはこの大きな悲しみに対して全く備えがなかった。しかし召される前に娘に言い送ったことばがある。「かわいいファニーよ、どんなことでも神様があなたを備えてくださるように祈りなさい。すべてのことは、神様があなたのために用意してくださることなのよ。 」このことばは終生フランシスの祈りとなった。
 なぜなら、この「準備」こそ彼女の全人生を貫くものとなったからである。一つの水平線に達すると、必ず前方にまた別の水平線が伸びていた。そのようにしてそれぞれの出来事があとに続くものを備えるのだった。

 ※今日は家庭集会の日。今年は珍しく玄関先にクリスマスローズがいち早く白い花を咲かせた。いつもなら、庭先に紫色の花が咲いて春の音ずれを意識するのだが・・・。高校時代の同窓生が年末の同期会の写真を送ってくださった。立春を意識したお便りであった。細かい心配りに感謝する。)

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