2016年1月31日日曜日

主の素晴らしい御顔を直視しなさい

「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(詩篇4・6)

 このようにして主の御顔の光は私たちを救ってくださるのです。

「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(詩篇44・3)ここでは御顔の光は過去の救いの手段として読めますが、

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇42・5)の詩篇作者は将来の助けに対する賞賛を先取りしてうたっています。この二つの詩篇は、現在の救いとなる後者の詩篇を傍注として読むことにより、美しくもつなげられているのです。

 「あなたがおられることが救いです」そのあとに平安が続くのです。主が私たちの上に御顔の光を照らし、私たちに平安を賜わる時、波は静められ、嵐を呼ぶ雲は音もなく、急速に、確実に逃げ去っていきます。なぜならこの主の御顔の照らしこそ主のかえりみが光り輝く前面であるからです。渋面にかわる笑顔としてです。

 私たちが主の光の中を歩く時、平安は喜びへと成長し、御顔を見ていつでもどこでも非常な喜びを経験することでしょう。その間、一足歩むごとに私たちはキリスト御自身のよみがえりの喜びに近づけられ、主とともに、「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」(使徒2・28)と言うことができます。

 私たちは日々、王なる方の御顔の光のうちに聖め、救い、平安、そして喜びを体験できるのです。こういうことがいのち、生まれ変わった新しいいのち、王なる方のこどもとしての喜ばしいいのちを構成するのではないでしょうか。

主の祝福の満たしが私たちを取り囲み、

主の約束の満たしが輝ける日ごとに冠となります。

主の栄光の満たしは上からの輝き、

私たちはますます主の愛の満たしを実感するのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-31-look-full-in-his-wonderful-face/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97195です。

 フランシスは18歳の時Worcester Cathedralで堅信礼〈※註〉を受けたが、その時のことは彼女に深い聖なる印象となって残った。「ああ主よ、このあなた様の子がとこしえまであなた様にとどまり続けるようにあなた様の天来の恵みをもって守りたまえ」ということばが司祭により彼女の頭上で重々しく宣言された時、「私の心が真剣な願いで打ち震えており、純粋な喜びをともなうものでなかったとしても、『とこしえまであなた様を(愛する)』ということばにあってなされたこと」であったと(語っている)。

 ※註 ヨーロッパの制度教会が信仰の確信を保証するために設けた仕組み。しかし、聖書を読む時、そのようなことは一切記されていない。主イエス様を自分の救い主として受け入れるだけで十分である。そこに宗教としてのキリスト教と「信仰」との大きな違いがある。「信仰」は外形、儀式などでなく、私たちが主イエス様との心からの交わりを持っているかどうかが大切である。

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