2010年2月16日火曜日

あーまたこの二月の月かきた


 つい先日、昨年11月刊行の『小林多喜二の手紙』(岩波文庫)を図書館で見つけた。何となく気になって読んでみた。十数年前、多喜二のお母さんを書いた三浦綾子の『母』(角川文庫)を読んだことがあったので真相を知りたいという思いがあった。それだけでなく母から聞いていた戦中の北海道を知りたい気持ちもあったからである。

 もともと私の家は先代まで北海道の森町で米穀商を営んでいた。その家に嫁いだ母は夫に死なれ、未亡人になったので森町の家を畳んで留守宅の本土滋賀県に帰ってきた。そして、家を守るために私の父を養子として迎え、私が一粒種として与えられた経緯がある。ところが、母は生前よく私に先夫の話をしたものだ。先夫は戦死したが、函館商業で左翼思想の洗礼を受け、それゆえの軍隊内での死であったかのような口ぶりであった。確かに先夫が遺した書籍にはそれらしきものがあった。それに対して私の父が農業関係の本しか持っていなかったので、生意気盛りの私には父より母の先夫がまぶしく見えた時期があった。

 『手紙』を読んで、当時の小樽を中心とする北海道を知るだけで楽しかった。また、彼が真面目に経済学を学んでいた人であることにも驚かされた。後に身請けすることになる田口タキに宛てた書簡は様々なことを考えさせられた。また獄中から送られる多くの書簡は謙虚に自らを顧み、新たな文学作品を生み出す充電の時期として過しているところなど多喜二の人間としての誠実さを思わされた。

 しかしこの多喜二には実はキリスト者の姉がいたのだ。獄中の多喜二に姉は賛美歌510番の歌詞を書いて送る。有名な賛美歌だ。(『手紙』224頁)

まぼろしのかげを追いて、浮世にさまよい、
うつろう花にあこがれる、汝が身のはかなさ。
春は軒の雨、秋は庭の露、
母は涙かわく間なく、祈ると知らずや。

幼くて罪を知らず、胸に枕して
むずかりては、手にゆられし、昔忘れしか。
春は軒の雨、秋は庭の露、
母は涙かわく間なく、祈ると知らずや。

汝が母のたのむ神のみもとにはこずや
小鳥の巣にかえるごとく、心やすらかに。
春は軒の雨、秋は庭の露、
母は涙かわく間なく、祈ると知らずや。

汝がために祈る母のいつまで世にあらん
とわに悔ゆる日の来ぬ間に、とく神に帰れ
春は軒の雨、秋は庭の露、
母は涙かわく間なく、祈ると知らずや。

そして多喜二は書く。「これは賛美歌です。姉が学校に通っていたころ好きな歌の一つらしく、ぼくも覚えさせられて、よく声を合わせて歌ったことのある歌です。姉は母の代筆の手紙にこの歌をかいてきているのです。この歌が今こそ始めて、本当の意味をもって、お前が独房の中で思い起こし、歌わなければならない歌だ、というのです。姉です。・・・・」

 一方、三浦綾子の『母』はその辺の取材を丹念に行ないながら、ほぼ事実に近い形でこの作品をつくり上げたように思う。再読してほんの一箇所だが森町が登場することにも気づいた。(『母』95頁)こんな多喜二が二度目の検束の結果、築地署で昭和八年二月二十日に拷問により死ぬ。母として耐えられない「息子の死」である。彼女はイエス・キリストの十字架死を最愛の息子の虐殺死に重ねる。三浦綾子はその母セキの追憶を通して全篇を描いた。秋田弁で語られる母のことばは万人の胸を打つ。以下は最後のシーンである。

 なあに? そこにある紙は何ですかって? ああ、これか。これは見せられない。泣きごとだ。わだしの泣きごとだ。

 二月が近づくとなあ、多喜二が死んでから三十年近く経っても、まだ心が暗くなる。まだ信仰が足りんのだべかねえ。恥ずかしいけど、そったら気持ちを書いたもんだ。ずいぶん前に書いたもんだ。思い切って見せて上げるべか。まだチマにも見せたこともない。

 ほんとはね、これはイエスさまにしか見せないつもりでいたんだ。人になんぼ見せても、わたしの辛さをどうしてくれるわけにもいかない。イエスさまだら、この辛さをちゃーんとわかってくれると思うの。死ぬ時には手ば引いて、山路ば一緒に行ってくれるお方だもんね。あんまり下手で恥ずかしいども、作ったというか、書いたというか、鉛筆持ったらこんなのできたというか、ま、そんなもんだ。

 あーまたこの二月の月かきた
 ほんとうにこの二月とゆ月か
 いやな月こいをいパいに 
 なきたいどこいいてもなかれ 
 ないあーてもラチオで 
 しこすたしかる 
 あーなみたかてる 
 めかねくもる 

 これな、ほんとは近藤先生にだけは見せたんだ。したらな、先生、なんも言わんで、海のほうば見ているの。五分も十分も黙ってるの。

(先生、何か気にさわったべか)

 と思ったら、先生の口、ひくひくしているの。そしてな、持って来たでっかい聖書ひらいて、

「お母さん、ここにこう書いていますよ。『イエス涙流し給う』※ってね」

 先生そう言って、声ば殺して泣いてくれたの。わだしは、「イエス涙流し給う」って言葉、何べんも何べんも、あれから思ってる。イエスさまはみんなのために泣いてくれる。こったらわだしのために泣いてくれる。下手なもの書いたと思ったけど、そう思ったら、破るわけにもいかんの。

 いや、長いこと喋ったな。ほんとにありがとさんでした。いや、ありがとさんでした。
 おや、きれいな夕映だこと。海にも夕映の色がうつって・・・・。

(※ヨハネ11・35のみことばである。写真は日曜日の那須地方、東西に走る55号線沿いの風景。右端が那須岳か。文中のセキの詩、方言で読みにくいが、恐らく、次のように読むのであろう。「あー、またこの二月が来た 本当にこの二月という月が嫌な月 声を一杯に泣きたい どこへ行っても泣かれない あー、でもラジオで少し助かる あー、涙が出る 眼鏡が曇る」)

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