2010年2月20日土曜日

強情な私


 永年、人から一冊の本を読んで欲しいと私は言われていた。ところが私は読まなかった。要するに強情なのである。たまたま一人の方がそのことを知られた。そしてその方も私にその本を読んで欲しいと思っておられたようだ。今週火曜日にその方から、その本を綺麗に包装されたプレゼントとしていただいた。とうとう読まずには済ませなくなった。少しずつ読み始めたが、もう少しで読み終える。こんなことなら最初から素直に読んでいれば良かったと思う。しかし、これもまた主が私に私というものの実態を知らしめるために許しておられたことに違いない。以下はその本からの抜粋である。

 非難することから人が救い出されるのは容易ではありません。しかし、理屈から人が救い出されるのはもっと困難です。わたしは若かったころ、いつも神の理屈のない行為によって悩まされました。その後、わたしはローマ人への手紙第九章を読んではじめて、神の権威に触れました。わたしは自分がだれであるかを見始めました。わたしは神の被造物です。わたしの最も理屈のある言葉も、神の御前では頑固であるにすぎません。すべてをはるかに超えておられる神は、その栄光の中にあって近づくことができません。もしわたしたちが神の栄光のわずか百万分の一でも見たなら、わたしたちのすべての理屈を投げ出してひれ伏すでしょう。遠く離れて生きている者たちだけが高ぶることができるのです。また暗やみの中に生きている者たちだけが、理屈の中にとどまっていることができるのです。自分自身のたいまつの光で、自分自身を見ることのできる人は世界に一人としていません。主がわたしたちに少しばかりの光を与え、ご自身の栄光を少しばかりわたしたちに啓示される時はじめて、わたしたちは使徒ヨハネのように、死人のように倒れ伏すことでしょう。

 どうか神がわたしたちをあわれんでくださり、わたしたちが今日も依然として価値のない、卑しい人であることを見させてくださいますように。どうしてわたしたちはあえて神と論じ合うのでしょうか? 南の女王がソロモンを訪れた時、そして王が彼女に彼の栄光のほんの少しを見せた時、彼女の霊は消え去るばかりでした。ここにソロモンにまさる方がおられます。捨て去ることのできない理屈がわたしにあるでしょうか? アダムは善悪の知識の木の実を食べて罪を犯しました。その時以来、理屈は人の存在そのものに根を下ろしました。しかし、もし神がその栄光をほんの少しでもわたしたちに啓示されるなら、わたしたちは一匹の死んだ犬、一塊の土くれでしかないことを見るでしょう。わたしたちのすべての理屈は、神の栄光の中に消え去るでしょう。人は栄光の中に生きれば生きるほど、一層理屈が少なくなるでしょう。他方において、理屈を言う人を見れば見るほど、一層あなたは彼が決して栄光を見ていないことを知るでしょう。

 この何年間かに、わたしは一つのことを見いだしました。それは、神のなさる事は決して理屈にはよらないということです。たとえ神が何を行なっているのか全く理解できなくても、わたしはやはり神を礼拝します。わたしは神のしもべであるからです。神が行なうあらゆる事がわたしによって理解され、認識されるとしたら、わたしは御座の上に座している者と同じであるでしょう。いったんわたしが、神はわたしのはるか上におられることと、神だけがいと高き方であることと、わたしはちりの中にひれ伏すべきであることを見るなら、すべての理屈はわたしから去るでしょう。この日以来、権威だけが事実です。理屈や、正しいか間違っているかではありません。神を知る者は確かに自分自身を知ります。そしていったん人が自分自身を知るなら、すべての理屈は取り除かれます。

 神を知る道は服従によります。理屈の中に生きる人はすべて神を知りません。進んで権威に服従する者だけが真に神を知ることができます。アダムから受け継いだ善と悪のすべての知識は取り除かれなければなりません。その時以後、わたしたちの服従は極めて容易になるでしょう。

 レビ記第十八章から第二十二章で、主はイスラエル人にある事を行なうよう命じるたびごとに、「わたしはである」という言葉を命令の間に差し挟みました。「なぜなら」という言葉さえありません。わたしはこう言う、わたしは主であるからである。他の理由は必要ありません。「わたしはである」が理由です。もしこれを見るなら、あなたはこの日から理屈によって生きないでしょう。あなたは神に言わなければなりません、「過去において、わたしは自分の考えと理屈によって生きてきました。今日、わたしはひれ伏し、あなたを礼拝します。それがあなたからである限り、わたしはそれで十分です。わたしはあなたを礼拝します」。(『権威と服従』ウオッチマン・ニー著123~125頁より、引用の際一部表現を変えたところがある。「主」は原文では「エホバ」である。)

南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者(イエス・キリストのこと)がいるのです。(新約聖書 マタイ12・42)

ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。彼女は、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあったすべてのことを彼に質問した。ソロモンは、彼女のすべての質問を説き明かした。王がわからなくて、彼女に説き明かせなかったことは何一つなかった。シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、列席の家来たち従者たたが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった。(旧約聖書 1列王記10・1~5)

(写真はホフマンの絵になる、ソロモンの知恵があらわされた有名な場面。旧約聖書1列王記3・16~28参照)

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