2010年2月8日月曜日
生くるは愛のため 畔上賢造
我にとりて生くるはキリスト、死ぬるは益。されどもし肉体にて生くること、わが勤労(はたらき)の果(み)となるならば、いずれを選ぶべきか、我れこれを知 らず。我はこの二つの間に介(はさ)まれたり。わが願いは世を去りてキリストと偕(とも)に居らんことなり、これ遥かに勝るなり。されど我れなお肉体に留 まるは汝らのために必要なり。我れこれを確信する故に、なお存(ながら)えて汝らの信仰の進歩と喜悦とのために、汝ら凡ての者と偕(とも)に留まらんこと を知る。これは我が再び汝らに到ることにより、汝らキリスト・イエスにありて我にかかわる誇りを増さんためなり。(新約聖書 ピリピ人への手紙1・21~26)
以上の数節において我らの先ず強く感ずることは、彼(註 パウロ)に存せしところの永遠希求の熾烈(しれつ)なる情感である。それは晩年においてのみ盛んとなったのでないことは、その壮年の時の書翰にもこの希求の強く現れているので知れる。すなわち最も早き作たるテサロニケ前後書の如きは、重にキリスト再臨について述べたものであるが、再臨といえば新天新地の出現―救いの完成の機会を意味するものである。ロマ書の如き彼の大作もガラテヤ書の如き彼の代表作も、共に是れ「如何にして救われんか」の問題を中核とするものにして、救いとは彼においては全然来世的であったのである。
「御霊の初の実をもつ我らも自ら心のうちに嘆きて子とせられんこと、即ちおのが体の贖われんことを待つなり」(ロマ8・23)と云いて、彼は救拯(きゅうしょう)完成の日を一刻千秋の思いをもって待ち続けたのである。「我らもしその見ぬ所を望まば、忍耐をもてこれを待たん」(同25)と云うはこれである。従って晩年に至りては、この希求がいやが上にも盛んとなったのである。ピリピ書のここの数節の如き、また3章8ー21節の如きに表れたる彼のこの心は、げに心憎きまでに燃え立てる永遠思慕の心である。我らは之を一の宗教的偉人の心境として、全く特異なるものとして説明し去ってはならない。神を信ずる者の必ず求めねばならぬ真生命への欣求(きんきゅう)が茲に在るのである。
かくも熾(さかん)なる永遠思慕は、もし今世を去る如きことあらば、ただちにキリストと偕(とも)なり得て充分に満たさるべきである。しかるに兄弟姉妹を愛する心よりして、彼らの益を計らんがために寧ろ地になお留まるを選ぶとの決意を抱きしは、盛んなる永遠思慕の心よりも尚一層盛んなる愛他的精神の発露である。これ実に世にも貴く、美しい心ではないか。世に人の魂を愛するために自己の幸福を棄てても厭(いと)わぬという人は多いが、そのためには自己最大の宗教的希求を暫し抑えても厭わじというは稀有の心である。稀有ではありても、我らの有ちたき心ではないか。
私は時に思う―殊に苦悩痛悶に際しては思う―むしろ今直ちに世を去りてキリストと偕(とも)になるが我の幸福ではあるまいかと。しかし翻って、弱き我をも柱と頼む数名の家族の上を思うては、なお此の世に存(ながら)えたしと望む。もとより召さるる時来らば誰人も之に抗することは出来ぬが、ただ自分だけの望むところはそこにある。之は我が父母、わが妻子を愛するという普通の人情の発露であって、極めて自然のことである。そしてパウロの如きは凡ての兄弟姉妹を我が家族と同じほどに愛する心を有ちたればこそ、彼らのために地上生存の必要を痛感したのである。
されば我らは彼のこの心を特異として説明し去らずして、先ずわが家族の魂に対するだけの愛を他の多くの兄弟姉妹の魂に向かって抱きたいものである。問題は茲に存する。パウロの信仰的偉大は、その家族を全く棄てて信仰の兄弟姉妹をのみ愛したという点にあるのではない。父母、兄弟、妻子(妻子ありしとせば)を愛すると同じほどに、すべてのクリスチャンを愛した点に存する。故にこそ彼はその家を顧みることなくして、専ら人のために働いたのである。故にこそ彼の家は全世界にして、必ずしもキリキヤのタルソ(註 パウロの出身地)に限られなかったのである。
われらもとより、彼に真似て家庭を棄てて全世界を遍歴する必要はない。しかし学びたきは彼のこの大にして無私なる愛心である。わが家族を懐うほどの篤き愛をもって凡てのクリスチャンを、また全人類を愛した情熱―その強さ、け高さの前には、私は謹んで額づきたいような気がする。パウロ崇拝ではない、ただ模範的基督者としての彼を懐うのである。そしてかくも深く人の魂を愛するは、ただ人の魂を愛するだけをもって終わらない。この心ありてこそ自己の魂が伸びる。故に人の魂を愛すること切なるは、自己の魂を培う所以にして、愛他は必ずその反響を自分の魂の上に受くるものである。これ愛の原則である。故に愛は斥けられても少しも損はない。斥くる者は損であるが、斥けらるる者はその愛を己の上に受けて己の魂を養う。人に道を説くは、人を救うためである以上に自己を救うことである。
(引用文は『畔上賢造著作集』第5巻655~657頁。原文は昭和5年から雑誌に連載された畔上の文章であり、名文であるが、現代人には読みにくいところがある。引用者の手により、漢字を少なくし随時読み仮名を( )内に示したりした。絵はオディロン・ルドン作のもの。)
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