2010年2月25日木曜日
天をおもう生涯 笹尾鉄三郎
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(新約聖書 コロサイ3・1~3)
まず記憶すべきは「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら」とある。これは世の人一般の人々に言われたことではない。世の人に向かって、地のことをおもうな、天のことをおもえと言ったとしても、それはできないことである。けれどもキリストを信じる者は、コロサイ2・12にあるとおり、死んで、そうして甦ってきた者である。もはや古い身分の者でなくて、新しい身分になった者である。だからそのつもりで暮らしなさいというのはもっともである。信者である者は、ついこの間救われた者でも、みな甦ったのである。もはや悪魔の子ではない。神の子である。だから神は私にも「上にあるものを求めなさい」とおっしゃるのだ。
キリスト者の一つの特色は天に属していることである。この世につかず、地につかず、霊につき、神につき、天についている。これは仏教の僧侶のように世を逃げ去ることでなく、また俗務に離れることでもない。身は依然として俗界にあり、さまざまな雑務をしておりながら、心が天にあるものを求めていることである。どうか、このコロサイ書をとおしてキリスト者の心意気を知りたいものだ。
第一に「もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら」とある。私どもは無理に天のことを思うのではない。これはむしろ当然である。なぜなら、キリストが彼処(かしこ)におられるからである。天下の中でだれかキリストのように私を愛し、キリストのように私のために尽力してくれたものはあるだろうか。私のために天から下り、すべてのことを犠牲にして、命をも捨ててくださった主は今も天にいらっしゃるからである。昔はキリストの墓を重んじるあまりに、十字軍が起こったことがある。もちろんこれには信仰の誤謬はあるが、キリストのためにという心がけに立ち入れば、殊勝なことではある。けれども現在キリストは、はたしてその墓におられるのであろうか。かつて金曜より日曜の朝までそこにおられたことはあったが、今はそこにはおられない。今そのキリストは天にいらっしゃる。だからキリストがいらっしゃるところが天にあることを本当に記憶しているなら、私どもも知らず知らず彼処(かしこ)に心が向くはずだ。詩篇73・25~26を見よ。
天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかには私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。
とある。じつにそのようである。ムーデーがよく言われたことに、自分の娘が向こうに嫁いでいるから、日に何度なく向こうを見る、別に用があるわけではないが、ついその家の方に目がつくと。これは愛する者がそこにいるからである。私どももそのように、別にこれという用事がない時にも、常に天のことを思うようになってくる。上の方を向いていれば、その中に天のことが映り、下を向いていれば地のことが映る。
次に私どもに先立って行った聖徒が天にいるからである。彼らは涙もなく、悲哀もない栄光の中で楽しんでいる。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(黙示録7・15~17)
彼らは永遠の慰めの中にいるのである。このことを思えば、私どももまた慰められるではないか。今朝も、先日息子を失ったある兄弟が来られて、人情としては悲しいけれども慰藉(いしゃ)がある、ひと晩悲しんだけれども、あとは慰めとなったと申されたことであった。先年私の知人がなくなったが、その臨終の時、家族の者が泣くと、その兄弟が、私は今上に行くのにおまえらは下を向いているのだ、上を向け上を向けと、今や死なんとする兄弟が、悲しんでいる家族を慰めた。兄弟は自分が墓にはいるなどと悲しんでいなかった。天へ行くのだと望みをもって輝いていた。ところが家族の者は肉体が死ぬ死ぬとばかり思っていたから悲しんだのである。オォ天のことを思おう。神のことを思おう。そこに勝利がある。パウロは「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1・23) といった。
今一つは天に私たちのために住宅が備えてあることである。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたが たに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを わたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14・2~3)
これが永遠の住処(すみか)である。キリストがこの世を去って天に昇られた一つの目的は、私どものために処を備えようとなさることである。御昇天以後今 に至るまで千何百年、キリストはいそがしく私どものために処を備えていてくださる。黙示録の終わりにある住所の美は、品性の美を指したことであるが、また 実際に住処(すみか)が美麗であることをも指しているのである。ヘブル書11・13~16に
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れる ことはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、 自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらに すぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用 意しておられました。
とある。これが信仰の人の足跡である。地にあっては、ほんの一夜の宿であることを思って、天の美しい住処を求めたい。私どもの心が天に向かっているなら ば、この世のつまらぬものをむさぼるようなことはすまい。たとえば何かの用でどこかに行く旅人が、道中に大きなよい家があるからといって、それを買ったり などするまい。雨露さえしのげば善しとして、あるところをもって足れりとするのである。ォー私どものためにこの世のものよりも、さらに幾倍も美しいものが 天に備えられている。これに目をつけて進みたい。
終わりにもうひとつ大切なことを申し上げたい。天のものを求めよといってあるそのあとに、このコロサイ書では三章より四章にかけて、いろいろなことを 言って、夫婦、親子、主従の関係にまで説き及ぼしている。ずっと高い天上の理想を示しておいて、今度はそれが台所のすみにまで届くように記してある。いろ いろな仕事雑務をするにも永遠のものに目をつけてゆき、霊的なものに眼をつけてゆかねばならない。まず三章にある第一のことは私どもの品性の問題である。 地につける姦淫だの、汚穢だの、邪情悪欲および貪婪などは霊の剣、十字架の力で殺してしまい、そして12節にあるような慈悲、あわれみ、謙遜、柔和、忍耐 などを着なさいとある。これはみなキリストの姿である。この世の美服でなく、これらはみな天にまで行くキリスト者の服装である。
金銭のことについても、キリストのように天に財を蓄えることが、天にあるものを求める人のことである。箴言にも「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ」(19・17)とある。天に眼のついた人はこのことをするはずである。
また仕事に従事するにも永遠に眼をつけるべきである。する仕事は何にせよ、よし雑巾がけにしても神のことを思いながら、また人のために神の栄えのために という心がけで、なすべきである。そうしてこのような動機ですべての仕事にあたることが肝要である。ある人の家に「永遠のために働く」と書いてあったが、 神の栄えのため、人の益のためにと思って働く働きは、永遠にまで残るのである。冷水いっぱいにても、愛のために人に与えれば、それは天にまで至るのであ る。「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」。このおもう(think)とは英語で、天にあるものにあなたの愛情を置けという意味である。ちょ うど親の心が子供にぴったりくっついているようなことである。何としてでも天のものに全く心を奪われて、地につけるものを捨てたいものである。
(この文章は明治42年2月聖書学院教会でなされた笹尾の説教の聞き書きである。101年前の今頃のメッセージである。原文に一部手を加え現代風にアレンジした。写真は庭に咲いたクリスマスローズ。「人知れず うつむくローズ 春近し」 「天国に あこがれて白 写したり」 「天おもう 造化の妙 雄蕊雌蕊」)
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