2010年4月19日月曜日

十四、迫害と「愛敵」の行動


 それから、クリスチャンの学生らは毎朝ヴォーリズさんの借家に集まって、祈祷会を開くことになった。
 学校には、祈り会を終わった20名余の学生がヴォーリズさんを取り巻いて、登校する途中で讃美歌を唱うものや、聖書を読みよみ歩むものもあった。19名のクリスチャン学生は白熱した感激的信仰を持つようになって、商業学校の三百の生徒間に盛んに福音の伝道が始まった。

 教会の会員となった小学女教師N嬢が、脳脊髄炎にかかって危篤だときいた青年の一団は、毎朝、祈り会で彼女のために祈ったり、その宅を訪ねて三々五々、祈りに行ったりした。ところがとうとうN嬢は永眠した。
 そこで、クリスチャン学生は大挙して、学校を休んで葬式に列した。銘旗をもち棺をかく、花輪をもつ、その他何でも葬式人足の役は青年学生が喜んで当たった。教会で式を終わって愈々西山の火葬場に行く葬列を作っていたとき、M先生が飛んできた。そしてその時の顔は青く沈んでいた。
 『オイ、諸君、学生諸君は一寸集まってください』
 Mさんがきた、不安な顔をして僕等を呼んでいる、というので、一隅に四五人いった。他のものはMさんが何というたとて、葬列を他所にするものでないとて離れないものが多数あった。

 『君等は考えて行動してもらわんと困るね。信者になることもよい、教会のために尽くすこともよい、しかし近頃の新聞にあんなにクリスチャン退治をやっている最中、学校を休んでまでも教会員の中でも妙齢の婦人のために葬式に来るなんて、大分熱が高過ぎるじゃないか』
 といって、『今更役を引き受けているもの全部を引上げることも出来ないし、僕は実に困った。ひょっとすると、こんな事からヴォーリズ先生が余りに宗教熱心というので、学校におられん事になるかも知れんと僕は心配するんだ。それで君等のなかで、役のない会葬者は皆登校してくれ給え、僕は頼むよ』

 M先生はクリスチャンであった。そして最もくわしく、険悪になってゆく、教員仲間の空気と、県庁の役人達の意向をしっていた。また近頃のヤソ退治の新聞記事の影響を感じていたのだ。それでも学生は一人も引揚げるものがなかったので、Mさんはスゴスゴ心配顔して学校へ帰った。

 葬式の後にN嬢一家は主イエスを信ずる家庭となった。N子の父は信仰の告白をした時、クリスチャンの同胞主義の実行より神を認めたというた。

 それから滋賀商業の学生間にYMBAが組織された。仏教青年会である。東本願寺の派遣僧、伏見のM師を中心として数十名の学生が団結して、そしてその発会式は盛大なもので、西の別院本堂に、数百の学生と有志が集まった。そしてクリスチャンの生徒は賓客として招待された。仏教徒は『しっかり宗教運動をやれ、東本願寺が後援するから』というていると風評するものがあった。
 反動の傾向がみえた。国粋保存だの日本主義だのが、学生間に叫ばれた。仏教も外国より輸入された宗教であることは棚にあげて、外国に降参する国賊ヤソバテレン共ということになった。

 ある日、北栄太郎が学校の運動場で、ベースボールのバットで頭をしたたか叩かれて卒倒した。そして加害者のSが今にも放校されんとした事があった。
 北は頭を包帯でグルグル巻きにしていたが、その姿で教員室の生徒係に出頭して加害者Sのために弁解してやった。そしてその処分を取り下げてもらった。北はクリスチャンであった。そのSは校内で有名な乱暴者で、ヤソ排斥の大将でピストルを持っているので恐ろしがられた。ニキビだらけの青年で、ヴォーリズを殺せと叫んだのは、この男である。

 もう一人物騒な男があった。Wというので、尋常商業の一年生、年齢十五、六歳の仲間のなかでかれは二十歳を過ごしていて、先生達のような髯を生やし、その頃流行のインパネスを着こんで、煙草入を腰にさして登校する。それが酒をのんで、懐の白鞘を抜いてみせる気味の悪い青年だった。
 国粋主義で、ヴォーリズは国賊の源だから、この白刃の錆にしてやると揚言していた。
 SとWは常に兄弟分のようにして、校内で幅をきかしていて、その鉄拳を見舞われたものはザラに多かった。また鉄拳の洗礼をうけて子分のようになったものも相当にあった。

 『ヴォーリズさん、SとWが、あなたを殺すというてますぜ』と注進するものがあった時、ヴォーリズさんは柔しく笑っていた。
 その内ある夜Kというヴォーリズさんと同居していたクリスチャンが、鎮守の森の散歩から帰る途中、欄干つきのお宮の橋から、何者とも知れぬ二三人の黒い影に襲われて川の中に投げ込まれて、ズブぬれ姿で帰ってきた。それからほとんど毎日事故があった。叩かれたもの、突き飛ばされた者、威嚇されたものが、毎日その出来事をヴォーリズさんに告げた。
 毎朝の祈り会はいよいよ盛んになった。

 ヴォーリズさんは、そろそろその顔の薔薇色を失いかけた。そして腸が悪い、腸が痛いと、持病のように言うようになってきた。ある日SとWがヴォーリズさんを訪ねた。そしてクリスチャンにしてくれと志願した。ヴォーリズさんは驚いてそのわけを聞くと、
 Sは『北の愛敵の実行に感激した』といった。Wは『祈り会の庭に忍んでいて偵察した時に非常に感じた』というた。
 クリスチャン連中は心から万歳を称えて二人の新兄弟を団体に加えて、親睦会を催した。その時、
 ルカ伝十五章の放蕩息子の話を脚色して素人劇をやった。Wが放蕩息子でSが誘惑者になった。そして一齣一齣、深刻な悔い改めの表情がよくできた。

 そうこうして、明治39年(1906年)の三月がきた。
 そして上級の熱心党クリスチャン学生の大部分は、わずかに三名の同志を校内に残して、八幡を去った。
 M先生も、旅行免状をとって、ヴォーリズさんの母校に遊学することとなり、遠く北米の天地に去った。それで、四月、新学年が始まると、今までの賑やかなヴォーリズさんの家は急激に淋しくなった。そして主人公も腹の病が日増しに悪くなって蒼白な顔に、深い皺がよって、梅雨の頃には、京都の同志社病院に入院してしまった。
 Iはレインコートを着たヴォーリズさんを抱えて、二人乗り鉄輪の車にのって、京都のフェルプスさんの宅まで送っていったが、途中ヴォーリズさんが青い顔をして、
『あなたは私の本当の弟のように、よく介抱してくれて実に嬉しい、しかし今度は私も日本の土になるでしょう』と言うた。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著56~61頁より引用。ただし原標題は「宗教熱心」というものであったが、引用者が勝手に内容を考えて標記のように変えた。なお、私の版<昭和24年版>では「I」となっている人物が、後の版<昭和44年版>では「I」は著者の吉田氏自身であることが明記されている。後年の版では吉田氏が召されたのでもはやイニシアルの必要がなくなったのであろう。そう思って前回のものも読み直してみると、これらの文章の証言がより一層真に迫ってきた。今日の箇所はヴォーリズさんにとって最初の蹉跌なのだろうか。しかし聖書には「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」詩篇126・5というすばらしい約束がある。)

0 件のコメント:

コメントを投稿