2010年4月20日火曜日

十五、往復切符


 痩せて細く、青黒くなった身体をヴォーリズさんは京都の友人、当時京都市YMCAの名誉幹事フェルプス氏の宅に横たえていた。邸は京都御所の裏、今出川通りの古びた洋館で、庭の樹木のみ美しい緑を、梅雨の雨上がりの、暖かな太陽にむけて誇っていた。

 わたしはしばしば見舞いに行った。そしてヴォーリズさんがだんだん悪くなるのを悲しんだ。わたしは英語の会話が多少できる自信をもっていたが、フェルプス夫人の女声で学生に親しんだことのない、生粋の英語が聞きとれないのに、ドギマギしながら家族の一人のように待遇されて食卓についた。二階の一室に死期を待つように見えたヴォーリズさんを想い出すごとに、涙ぐましくなった。

 『ミセス・フェルプス、一体メレルさんはどうなるのです』その頃からは、ヴォーリズさんを、フェルプスさんと同じようにメレル・メレルとファースト・ネームで呼ぶことになった。『ドクターの話では腸結核だろうというのですから、出来たら今のうちに本国へ帰るがよいとおもいます』わたしはホームという言葉に本国の意味のあることを、その時初めて知った。『しかし、神戸のサナトリウムで、一二ヶ月養生したがよいとすすめているところですよ』と同夫人が言葉をついだ。

 わたしはサナトリウムという言葉がわからないので、療養所という意味であることを説明してもらった。それからわたしはフェルプスさんのところで、ヴォーリズさんといっしょに泊まることにした。もちろん学校は休んでいた。四五日してから、ヴォーリズさんは神戸の布引の瀧の傍のサナトリウムに入院したので、わたしは八幡の暗い大きな家に帰った。

 半月ほどして、ある日の午後突然六尺豊かなフェルプスさんが、ヴォーリズさんを赤布に包むようにして人力車にのせて八幡にやってきた。『どうしたんです』わたしは驚いてたづねた。『メレルは今晩の急行で横浜へいって、明後日出帆のエンプレスで、合衆国へ帰ります。私はメレルを寝台に寝かしておいて、手回りの品を集め、荷造りして今夜立たせようと思います』

 そして時間がないというので、ドシドシ靴のまま、畳敷きのところも早足ではいって来られた。ヴォーリズさんの寝台の用意をコックに命じ、自分はステーマー・ラッグのかぶせてある大型のトランクを部屋の真中に引出して、衣類やら、何やら手回りの品をつめ始めた。ヴォーリズさんは、静かに、ほんとに元気のない亀のあゆみのように、表口より奥の間に独りで歩んできて、わたしの心配らしい顔をみて、両眼に涙ぐましいうるみを光らせている。わたしは胸のなかに『殉教者! 神よ、再び彼に健康な身体をあたえてこの日本に、この湖畔に帰らせ給え』と祈った。

 わたしは涙をかくしながら、フェルプス氏を手伝って、ヴォーリズさんの荷造りを二三時間ですませた。そして頼んだ運送屋は馬車を一台もってきて、トランク二個、行李、スーツケースを無造作にはこんで行った。『メレル、書籍はどうするの、それからまだ大分荷造りのできないものがあるが、それはどうしよう』『フェルプスさん、私はきっとふたたび帰ってこられそうですから、そのまま置いときましょう、近頃なんだか病気も大丈夫よくなるという確信ができましたからね、そして横浜でも往復切符を買ってください、半年もするとまたこの家に帰ることにきめますから』と寝台の上の病人がそういって身をおこした。

 『吉田さん、私はね、今度帰国したら、お土産に、学生青年会館を八幡町の中央に建てようと思うんです。あなたは、町の中央に土地をみつけてください。私も少々貯金ができたし、国に帰れば篤志の友人もあるからね。二十人位の寄宿舎と、三百人位の集合する場所をつくりましょう。私はいったんは、近々に日本の土になると思うたが、何だかまだまだ働けるようになると思う夢をみているんです。お互いに太平洋をへだてて祈りをしましょうね』

 フェルプスさんはわたしの顔をみて淋しく、ある合図をするように笑っていた。そしてその目には病人に知らせてならぬ消息があるようだった。夕食をすませると、三四人の教会の人たちが驚いてやってきた。そしてまだ夏に早い晩春の星空の下に、人力車をつらねてあの八幡町の郊外の長い縄手をステーションへ指して走った。

 わたしはヴォーリズさんを米原まで見送った。九時過ぎであった。もう離別すべき時がきた。上り急行は今五分にして着するという時、ヴォーリズさんと腕をくんでプラットの南端に歩んでいると、月に光る湖面をへだてて、遠く比良山の上空に壮大な尾をひく彗星があった。

 『ハレース、コメット!』
 『ハレー彗星が出ましたね、悲しい別れの不思議な記念ですね、メレル、早く帰ってください、私は祈ります』

 わたしはヴォーリズさんと握手しつつ泣いた。汽車は月空に黒い煙を残して東へ疾走した。わたしは夜半八幡に帰ってヴォーリズさんの許可をえて自分の寝室にした二階の六畳の鉄の寝台に、身を横たえて、羽枕に顔をうづめて泣いた。
 『我等の父なる神、私共の目をあなたに向かしめた恩人、愛師ヴォーリズさんをふたたび必ず湖の国へ帰らしてください、それは神の国の進歩になりますから』
と。後にきけば、ヴォーリズさんは不治の病をもっていたので、ふたたび日本にくることはあるまいとて、フェルプスさんはヴォーリズさんに片道切符を横浜でわたして、ヴォーリズさんの貯金を全部米国の為替にかえてしまったが、ヴォーリズさんはいったん仕方なしに承知しても、フェルプスさんが帰ってしまうと東京の友人から金をかりて直ちに切符代を増払いし、通用期間六ヶ月の割引往復切符を買い直したのであった。

 それから明治三十九年の六月、ヴォーリズさんは富士山とさくらの国を後にして、星条旗のひるがえる国ロッキー山脈のふもとへ帰ってしまった。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著62~66頁より引用。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」ピリピ2・13。ヴォーリズさんのいのちがけの行動の背後にはこのような全能の主の導きがあったことを思わざるを得ない。写真はヴォーリズさんも昼間の出発なら見たであろう、米原駅を越えてすぐ見える伊吹山。しかし彼らの眼前には遠く比良山に彗星が見えたと言う。この写真で伊吹山の左手奥に見える冠雪せし山が比良山であろう。「異国にて 涙の谷を 越え行きて 証をせんか キリストの愛」)

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