2010年4月2日金曜日

わたしたちをあがなわれた主 マルチン・ルター


 一、二ヶ月前に偶然な機会に、私はルターの一書を手にした。それは『オリブ山で―ルターの「主の受難の説教」 』(石橋幸男訳 聖文舎発行)と題する新書版の本である。1965年に出版されたものだ。全部で7つのメッセージが収められている。それらは次のものから構成されている。

 序章 キリストの受難
 第一 受難から生まれる恵み
 第二 オリブ山で
 第三 イエスの逮捕
 第四 剣をおさめよ
 第五 アンナスとカヤパの前で
 第六 ペテロが三度主を否定する
 第七 反逆者ユダの最後

日本語版でわずか155頁であるが、受難週のこの機会に熟読してその内容に驚かされた。私たちがいかに罪を犯すように悪魔の誘惑を受ける存在であるか、そこからの脱出は、イエス・キリストの十字架の贖いがすべてであることが、聖書のことばとの関連で説得的に描かれていたからである。しかも後半でペテロとユダという二人のイエス様の弟子がいかにしてイエス様を裏切ったかが考察されていた。しかし、もちろん結論はそこにあるのでなく、いかにしてペテロが悔い改めの恵みにあずかれたか、逆にユダが眠っていた罪の虜になり、罪を跋扈させ、滅んだかは、みことばに聞き従ったか、どうかだった、と結ばれていたからである。

 読んでいて、わが身に照らし合わせてぞっとする思いがした。みことばに従順に従わない自分もユダのようになり得ると思ったからである。だから、今日はその本から抜粋して紹介しようと思ったが、どこを区切っても区切りきれない、全体が一書になっており、カット品をお見せするのは気がはばかれた。そのため、それに代わるものとして、別の手許にある一書『ルターによる日々のみことば』(鍋谷堯爾編訳 聖文舎発行)の4月2日の分を引用し転写することにした。(もっともこの本はあるサイトで公開されているはずである)同じルターのものであるだけに精神が共通しているところがあるからである。題して「わたしたちをあがなわれた主」であるとする一文である。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(新約聖書 コロサイ1・13~14)

 罪は、永遠に変わることなくさばかれています、(神は罪に対しては決してゆるされることがなく、また、おできにならないからです。神の怒りは永遠に変わることなく罪に向けられております)。それゆえ、怒りを取り除き、支払いをなし、罪が取り去られ、完全に消し去られるために、特別に貴重な代償が払われることなくしては、あがないはありえないのです。しかも、いかなる被造物もこれをなすことができず、助けもありません。ただ、神ご自身のみ子が助け主としてこられ、人となられ、ご自分の上に永遠の怒りを負われ、犠牲のそなえものとして生命と血をささげられることだけが唯一の道であります。

 わたしたちに対する限りないあわれみと愛のうちに、主はこのことをなしとげてくださいました。ご自分を捨て、永遠の怒りと死を身に負われたのです。この貴重な犠牲は、ご自身の愛するみ子の行為のゆえに、神にとっては限りなく高価なものでありました。み子は神の大能と栄光のうちに神とともにあられたかたですが、このみ子によって神は和解を受け、罪を許し、み子を信じるすべての人を恵みのうちに受入れてくださるのです。

 このゆえにのみ、わたしたちは貴重なあがないの行為の実と結果を与えられて喜ぶことができます。それは、語ることも、測り尽くすこともできない愛から、わたしたちのために獲得してくださり、与えてくださったものです。そこで、わたしたちの側では誇ることは何ひとつなく、ただ、失われ、罪に定められたわたしたち罪人をあがなうために、これほど高価な代償を払ってくださった主に感謝し、賛美するのみです。

(写真は《三つの十字架》レンブラント1653年作のエッチングより。「十字架 伝える幸を 忘れまじ 初子生まれし この日を想う」 )

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