2010年4月8日木曜日

十、バプテスマ


 明治38年の秋は、ヴォーリズ先生の熱烈なる信仰が実を結ぶ時であった。
 滋賀商業の四年級にて、最も謹直で、父親さんとも、爺さんとも綽名されていた、級長のKが決心して洗礼を受けた。ヴォーリズさんと同居した他のKも受洗した。Iも九月の末に受洗した。

 八幡教会の伝道者は彦根より出張してくるOさんであった。Oさんは実に痛快な人であった。右手がない上に、右の眼が鹽魚(しおざかな)のようになっていて、左のただ一つ残った眼も強度の近視なのだ。それでいて音声は朗々として、伝道説教になると、私共の鼓膜のビリビリするほどの大声が出る。そして破鐘式でなくて美しく愉快な声なのだ。ある時Oさんは次のように説教した。

 『僕の知人に痛快な医者がいるんです。彼は煙草と戦ったが勝てなかった。それで僕に何として戦ったらよいかと尋ねたので、「僕は天地の唯一の神に祈るのみ」と、一言答えておいた。ところが彼はまだクリストを知らないから神に対する祈りを知っていない。
 その細君にきくと、実に痛烈な事をこの医者がやったものだ。諸君まあこうだ。彼が祈りをする事になると、家の二階に上って、人には格好が悪いものだから、襖を閉めきって、十畳の部屋のまんなかに、キチンと座って、大声に、

 「天地にただ一つの神があるならば、その神に物申します。
私は煙草をただ今より断然廃止します。もし私の口に煙草が入りますなれば、私を八つ裂きにしてください。アーメン」

 とやったんだ。そうするとしばらくは煙草の欲がなくなった。しかし、また三四時間するとムラムラと欲がでてきたので、猛然と立って診察中でも、午睡の最中でも何でも構わん、二階の十畳の真中へ飛び込んでは八つ裂きを祈るんだ。

 「神様、八つ裂きにしてください。もし私が煙草を吸う時には。アーメン」

 といって三日御晩、戦って勝ったよ。勝った後に彼は、実に目覚しいクリスチャンになった。
 諸君は理屈をならべる暇に、大いにその肉体の欲と戦闘して勝つことを要するんだ。信仰は勝利者の上に明白に来るものである。
 パウロは「汝ら未だ肉の欲と戦いて血を流すに至らず」(註1)と言っている。諸君は血をもって信仰の生活に入る必要がある。』

(中略)

 こういうような調子で、Oさんは不具者特有の醜い顔に、天来の美しい輝きを宿らせて、預言者バプテスマのヨハネを、しのばせてくれた。

 その教会(註2)は明治13年頃から同志社の新島先生門下の、海老名、宮川、原田氏達の、猛者が伝道して起こしたもので、明治20年前後には相当の信徒数もあったが、欧化政策の夢より国粋保存の反動の波にもみ壊されてしまって、日露戦争を終わった頃には、信徒は男四人、女五六人にすぎなかった。集会場は薄暗い家で深尾さんという婦人伝道師がすんでいた。家の二間続き、六畳と八畳に瀬戸火鉢が三つほどあって、古い本箱に、塵に埋もれた福音書、表紙のない讃美歌、聖書講義録や信仰上の雑著がならんでいた。ぼろオルガン一つ、壁は鼠色で、所々洋紙で、つづくり張りがしてあった。アメリカ伝道会社からきた日曜学校の掛絵も散々の目にあって掛かっていた。畳も勿論ひどい。

 ヴォーリズさんは米国の教会堂で、オルガンを受け持ったりしたのだが、パイプオルガンやピアノにふさわしい手で、ガタガタ踏音のするぼろオルガンを弾いていた。そして、青年共は破れ声をあげて、

 「ほろぶる、この世、
 くち行く、我が身、
 何をか頼まん、
 十字架にすがる」
だの
 「さまよえる者よ、立ち帰りて
 天つ故郷の父を見よや」
とか
 「我罪を洗いて雪よりも白く
 せよな」
 
 などの歌を唱った。盛んなものだった。Oさんが唯一の大事な左の目、それも細く血走って脂のでるのを、白手袋をつけてある義手の掌の、指の間に挿んだハンカチを、右の手でスッとぬいて目を拭きふき、左の腕でポッキリと切り残された、肱の所に、さんびかの本をもたせて、暗記しておられる歌の詞を、朗々たる美声をもって唱ってゆかれた。そして常に悲壮、痛烈、熱血をもって立つ伝道者として私共学生を鼓舞せられた。

 信仰の炎は火柱をあげてきた。
 滋賀商業の学生の三分の一以上は、バイブルを手にし讃美歌を唱いだした。
 私ども、受洗したものの制服のポケットには革表紙小型赤金縁の聖書と、同じ装丁のさんびかがあった。課業と課業との間の休憩時間は、さんびかの研究や、聖書の黙読に費やすことにした。
 運動場に点々とバイブル・クラスに出入りする生徒等が読書している姿。

 それは聖書を読んでいるのであった。

註1 ヘブル書12・4を指す。必ずしも著者はパウロと確定はしていないが、吉田氏はそう解釈したのであろう。
註2  八幡教会のことであろう

(引用文章は『近江の兄弟』吉田悦蔵著34~38頁のもの。なお、前回に続く、七、「日本印象記」、八、「消息」、九、「心の清き者」は残念ながら省略した。滋賀商業は近江商人の士官学校と言われたこともある、と聞く。この学校の明治の歴史にこのような一齣があったとはにわかに信じがたいことであるが、事実は事実である。それにしても、その後はどうなるのだろうか・・・今日の写真は昨冬、庭に植え込んだ5、6本の木のうち枯れずに成長した唯一の木。名前を忘れた。)

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