2013年3月19日火曜日

救いの道(6)価なく私は義しくされた

The Crucifixion,1870 by Carl Bloch
あなたは、教会でも最も活動的な人であるかもしれませんが、救われておられないかもしれません。というのは、教会の諸活動は決して人を救うことができないからです。教義や教理、あるいは祈祷、禁欲、十一献金、悔い改めの涙は、皆必要なものですが、決してあなたを救うことはできません。また、牧師でも司祭でもたとえどんな人であっても、人を救うことはできないのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(新約聖書 使徒4・12)。ただキリストだけが、人を救うことがおできになるのです。

神の救いを受けるにふさわしい道徳的な、また宗教的な行為はありません。人間に可能な最善の生涯を送っても、また教会の役員として最高度に熱心に働いても、その正しい行為によって神に近づくことはできません。道徳、正しい行為、愛に満ちたわざ、あるいは犠牲的な奉仕によっても救いを得ることはできません。またそれらによって神の恩恵を受けることはできないのです。救いは、わざによって得られるものではありません。救いは、「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2・9)。したがって、もしあなたが現在の状態で、自分の行ないによって救いを獲得しようとされるならば、あなたは滅亡の途上におられるのです。人は決して、自分で自分を救うことはできません。

人間の救いの計画は、いつも自分の功績や行ないによりますが、神のご計画は恵みによるのです。聖書には、こうしるされています。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2・8)。恵みは、行ないや功績とは全く別のものであり、救いがもし恵みによるものであれば、行ないは救いとはなんの関係もありません。また、もし救いが行ないとか功績によるものとすれば、恵みによって得ることはできません。全き恵みか全き行ないかのいずれかなのです。

恵みということばは、聖書中でも最も偉大なことばです。「神の恵みの福音」は 、人々に宣べ伝えるためにわたしたちにゆだねられた最も喜ばしいおとずれです。神の救いに関するすばらしい声明を、わたしたちはローマ人への手紙三章二十四節に見ることができます。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」と。この、どのことばにも深い意味があります。たとえば、「贖(あがな)い」ということばには「買いもどす」という意味があります。人類は、最初のアダムによってサタンと罪と死に売られました。イエス・キリストは、その罪をにない、罪の刑罰を受けて代価を払われ、あがないをなして下さいました。キリストは、わたしたちをサタンの奴隷市場から買いもどして下さったのです。

主イエスはわれらの罪のため
恐ろしい刑罰を受けられた。
カルバリの上で小羊となって血を流し
あがないを成し遂げられた。

その代価は、主ご自身のとうとい血潮でした。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました(1ペテロ1・18〜20 )。このように、身のしろ金が完全に払われたので、神は「価なしで」人間を義とされました。

ヨハネによる福音書十五章二十五節に、「理由なしに」ということばがありますが、これはギリシャ語では「価なしで」と訳されています。「彼らは理由なしに わたしを憎んだ」。すなわち、なんの根拠もなく憎んだのです。神はこのように、なんの根拠もなく、罪人を義とされます。それは、「何の理由もなしに」、または「価なしで」です。神の恩恵に値する功績や行ないは、わたしたちの中には何一つありません。神は、イエス・キリストのあがないのわざによって、わたしたちを義とされました。この恵みは「価なしに賜わった恩恵」であり、価なしに与えられたのです。それは全く神によるものです。人はそれを、何かのよいわざによって、あるいはそれに値する行為をもって獲得することはできません。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳19〜21頁より引用) 

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