2013年3月11日月曜日

うたがいから信仰へ(7)

天秤櫓と廊下橋(彦根城内)
表題のテーマはO.ハレスビーの著書(『私はなぜキリスト者であるか』の内に収められているもの)にちなんだものであり、彼の論考に添い、できるだけ私自身の経験も吐露しながら、引き続いて考えて行きたいと思います。

祈りとは目に見えない神に語りかけることです。そのことばは空しくこだまするだけのものでしょうか。

「私は、きわめて熱心に祈った。私は、私の母が、死と戦っていたときに、私の子が苦しんでのたうちまわっていたときに、神に叫んだ。私のなやみの中で、私は、神いましたもうことと、私ども人間が祈るとき、神はきいて、答えたもうこととを確かにするために、神が干渉なさってあの人たちを苦しみの中から、また私を疑いの中から助け出したもうように神に叫んだ。しかし答えはなかったと。またそれにつけ加えて、それは私の一生のうち最大の失望であった」(同書31頁)

彼はこのような気持ちははじめて神に向かおうとして祈ろうとする人々の共通意識であることを認めます。その上で、「人の心の中には、神が造った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋めることができない」(パスカル)という人だけが持つ霊的存在という性質に着目し、彼自身が祈り始めた経験をさらに次のように述べています。

「私が祈り始めた時とった態度を、今、ご注意ください。第一に、私は、神の側での祈りの応答を信じませんでした。気まぐれな個人が、時に神に求めるような事柄に、神が心をとめることができたり、心をとめようとしたりする可能性そのものを私は否定しました。私は心の中で永遠者に向かってのぼる純粋に主観的な運動のほか、何をも祈りの中に見ませんでした。(中略)第二に、そしてこの関連では最も重要ですが、私は、率直にまた信頼して、神と語るために神に向かいませんでした。私のこの世的なまた利己的な生活をやめることが、私の志では決してなかったのです。反対に、祈ろうとする私の企ては、私の良心の多かれ少なかれ、明らかな呵責にわずらわされないで、私のこの世の生活をつづけられるように平和と安楽を見つけようとする半意識的あるいは無意識の努力でした」(同書34〜35頁)

聖書には「彼らは木に向かっては、『あなたは私の父。』、石に向かっては、『あなたは私を生んだ。』と言っている。実に、彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった。それなのに、わざわいのときには、『立って、私たちを救ってください。』と言う」(旧約聖書エレミヤ2・27)というみことばがあります。ハレスビーが「率直にまた信頼して、神と語るために神に向かいませんでした。私のこの世的なまた利己的な生活をやめることが、私の志では決してなかったのです」と言っているのは上の聖書中の「わたしに背を向けて、顔を向けなかった」と同じことではないかと私は思います。

結局彼のこの祈りは成功しなかったと、彼は言うのです。 神との真の交わりを経験するためには、すなわち「うたがいから信仰へ」と一歩踏み出すためにはどうしても各人がルビコン川を渡らねばなりません。賽は投げられなければなりません。しかし人はその決断を渋り、それゆえに信仰への道を踏み出すときの大きな言い訳として、再び自己の理性の牙城に閉じこもり、永遠に懐疑者の道を歩み続けるのです。

私自身、何度もこの「優柔不断」を経験させられました。しかし、主のあわれみにより、懐疑者であることから離れて、今では主の城門の内に入らせていただいているのです。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(新約聖書 ヘブル11・6)

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