2013年3月20日水曜日

救いの道(7)救われることはかんたん

二人展より(麻布十番・フェイス10画廊 3/15~3/20)
律法を満足させる方法は、二つあります。一つは、律法を守ることであり、もう一つは、律法を犯した時、その刑罰を受けることです。その刑とは「死」です。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6・23)、「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18・4)。律法には必ず刑罰があります。律法を犯した者は、決してその刑をのがれることはできません。しかし、神は罪人を救い、しかも義をもって救うために、キリストを下さいました。神の義を満足させるためにキリストを人間の罪のための供え物としてこの世につかわされたのです。

「神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになる」ためでありました(ローマ3・26)。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」(ローマ3・25)。「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです」(第一ヨハネ2・2)。これらの聖句にも示されているように、イエスが罪の刑罰を受けられることによって、すなわちイエスの死によって、神は恵みをもって人と交わることができるようにして下さったのです。

神のみことばをそのまま受け入れ、そのとおりに信ずることは、普通の人にとってはむずかしいことです。彼らは、神の恩恵を受けるためには、必ず何かを「行なう」ことが必要だと主張します。たとえば、悔い改めについて、普通どのように考えられているでしょうか。普通の人は、長時間のざんげと悲しみ、心からの後悔、苦悩、苦行修行を重ねて、自分の罪を告白したり、ゆるしと救いを祈ったりしてはじめて神のあわれみを得ることができると思っています。そのようにして、「彼は罪を悔い改めた」と信ずるのです。

その人は、罪を自覚するかもしれません。しかし、罪の自覚は悔い改めではなく、回心を意味するものではありません。みことばによってわかるように、この経験は救いの根拠ではありません。神は、人が救われるためには、長時間の悔い改めを要するとは、どこにもおっしゃっていません。しかし人は、十分長い時間をかけて悔い改めるならば、それによって神がついにゆるして下さると思うのです。

魂のあがないは
悔い改めや祈りの涙によらず
ただ主の血によるなり

たとえあなたが、自分の罪を悔いて神に告白し、ゆるしと救いのために祈られても、あるいは神のあわれみとゆるしを絶えず懇願されても、それによって救われることができるでしょうか。このような行為によって、神の恩恵を受けることができるでしょうか。あなたは、それが不可能であることを知っておられると思います。

このようなあなたのなす行為のすべて、すなわち、涙、祈り、告白、悔い改めから離れなければなりません。そしてキリストを受け入れ、キリストの血潮により頼み、カルバリの上で完成されたみわざに自分の信仰を置き、キリストが罪の価を全部払われたことを信じて信頼する時が来なければなりません。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳22〜24頁より引用。「希望にあふれて」と題するゴットホルド・ベックさんが書かれた実見談が「光よあれ8集」に載っている。『及川廣太郎先生は、竹田清先生の後輩でした。数学者として東大の名誉教授になり、日本だけでなく、ドイツでも著作が出版されている有名な方です。自分は無宗教だと言っておられましたが、がんになり、その病は彼にとって大きな重荷になったのです。廣太郎さんはイエス様の招きのことば、「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげます」を聞いたとき、すぐに従いました。彼は祈りました。「主イエス様、私のわがままのために死んでくださったことを感謝いたします」別れる時、彼は言ったのです。「救われることはかんたんなことですね」。』)

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