一日、いったい私は何度うそをつくのだろうか。ある人が講演の際、女性は一日180回はうそをつくと言われたそうな。この数は多いと思うべきか、それとも少ないと思うべきか。自分自身でこうしようと思い、主の御前で祈っていることもケロッと忘れており、配偶者から指摘され慌てることもある。このブログでもいくつかの作品を約束していながらいまだに果たせていないものもある。こうして数え上げてみると180回という数字はそれほど根拠のない数字でもなさそうだ。
一週間ほど前にお会いした方々にお便りを出すと言っていながら、いつの間にか先延ばし先延ばししていて、とうとう今日になってしまった。今まで数知れぬうそ、約束していながら、自己の都合ですっぽかしてしまって忘れてしまうようなそういううそを何度もついてきた。だから、今日はそんな性癖に少しは歯止めがかかったことに安堵した。ちなみに冒頭ご紹介した人の言によると男性は220回うそをつくそうな。恐るべし、恐るべし、である。
イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(ヨハネ2・23〜25)
昨日も幸いなことに家庭集会を持たせていただいた。すべての人が主イエス様のみことばを求めて集まられた。距離をものともせず、遠くから来られる方々ほどその求めは急であるのだろう。帰られた後、そのような方々の話を聞くと大いに励まされる。しかし、この距離は、本質的には主に対する距離をふくんでいるのでなかろうか。主からもっとも離れていると自覚している者ほどその飢え渇きは激しいと言えそうだからである。
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。(詩篇42・1〜4)
昼間の集会では、人間の持つ無力さ、疲れ、たゆみ、つまずき倒れる性質に対して、主が提供される力はどれほど圧倒的な力を持ち、人の体、魂、霊に強さを与えるかが解き明かされ、夜は「主の喜び」が私たちの内側にいかに根付いているかが問われた。(引用聖句は昼がイザヤ40・25〜41・1、夜はネヘミヤ8・10、詩篇16・11であり、題名はそれぞれ「主の前に静まる」「主にある喜び」であった。)
次回は3月27日(水)午前10時半からである。
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