私たちの交わりを庭の枝枝に宿りながら見ていたムクドリ? |
キリスト者とは主を心から礼拝する民を指す。しかし、それだけでなく互いに忌憚なく交わることを重視する民でもある。近江八幡でも毎日曜日そのような心からの交わりが食事をともにしながら持たれている。ところが、その日の食事の交わりの中で、私がその方に発した軽いことば・冗談がご当人から問題にされた。そのことを指摘されるまで私は全く気づかないでいたことだった。知らずにその方の心を傷つけていたのだから恐ろしいことだ。
その方から指摘されて始めて自らの非礼を自覚した私は、ただ平謝りするしかなかった。逆にそれを根に持たないでこのような場で公にしてくださってありがとうございますと申し上げた。しかし、それでも何となく事柄が事柄だけに一瞬気まずい思いがその場を支配しそうになった。その時だった。その中で一番若い青年、しかもその方と日頃から親しい青年が一言、「謝ったのだから赦すべきだ」と発言したのだ。まさにタイムリーなことばだった。
「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ」(旧約聖書 箴言25・11)
私はこのことをとおして皆の心がさらに一つにされ、高められたのではないかとさえ勝手に思っている(もっともこれもひとりよがりの思いかもしれないが・・・)。そして私たちはみんなで一緒になって二日前に手術された方を見舞うことができ、そのころには私とその方とのわだかまりもすっかりなくなったのではないかと思う。今にして思えば独りよがりになりがちな私には苦い薬だったが必要な訓練だった。
皆さんと別れたあと、近江八幡在住の学校時代の友人が遊びに来てくれと携帯に連絡してきた。私は普段はこちらにいないので誰かこちらの方も一緒のほうがいいと咄嗟に思った。それで様々なことを考えた末、ここは先ほど私に苦言を呈された方しかいないと思い至った。早速連絡したら快く引き受けてくださった。こうして、私たちは友人の家にお邪魔し、その方は友人とは初見だったが、三人で親しいお交わりができた。
ここまでは日曜日一日のことなのだが、月曜、火曜とあの電車で会った気の毒な方の家を訪ねることもでき、友人は友人で今度は私の家にやって来、お互いを今までよりも理解し合えたのでないかと思う。今回は母の兄姉の中で唯一健在である叔父とも彦根城の近くの路上で不思議な出会いをし、家に案内され、久しぶりに旧交を暖めることができた。
短い滞在期間であったが、どれ一つとして無駄な出会いはなかった。近江の箱舟にもっともっと多くの人が乗りこまれるようにと心から思う。
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