2013年3月9日土曜日

うたがいから信仰へ(6)

三須臾 鳥啄(ついば)みて 我カメラ
O.ハレスビーが信仰を持てそうもない懐疑者に勧めたのは、まず新約聖書を読みなさいという勧めでありました。イエス在世当時以来、今日まで人々にあるのは主なる神様に対する懐疑心であります。人が考えることと神さまがなさることとはスケールが違うので、自分の尺度で考えればつねに疑問があるのは人間の自然の性質として当然であり、そのこと自身は何ら怪しむべき事柄ではありません。今は何ら抵抗感無く、聖書を読んでいるひとりひとりも最初からそうであったのではありません。これは100パーセント保証できる事実です。

それではそういうひとりひとりがいつの時点から聖書を疑わずに読むようになったかと言えば、前回指摘しましたように、自らのうちにある真実な姿と、イエスにあらわれた真実を自らのうちに体験することであります。今週学校時代の友人の大学卒業アルバムを拝見させてもらったとき、その大学の学長さんが自らの写真の下に、小さく「外なるもの汝を汚すに非ず。内なるもの汝を汚すなり※」と書かれていました。私の友人はそのことを意に留めていませんでした。しかし、このことばはまさしくイエス様が言われたことばの引用です。

しかし、O.ハレスビーはさらに一歩前に進み、次のように勧めます。

「私の次にさしあげる小さな忠言は、これです。神に祈りを始めなさい。新約聖書を読み始めると同時に始めなさい。しかし、祈りの価値を疑います、とあなたは言います。わかっています。しかし、それでもなお、お始めなさい。(中略)

祈ることは率直にまた信頼をもって神と語ることです。あなたが一介の懐疑者であっても、どうしてそのことができないのですか。あなたは人間と話します。いと高きお方なる神とどうして語らないのでしょう。神は見えないのです。それはほんとのことですが、人間の中にある真の人格はまた見えないのではありませんか。あなたの目に見えるものは、からだだけです。人間は内的実在をもち、信仰によってその実在者と接触をうちたて、こうして自分の存在を確かにするのだということを信じなければなりません。

わかりました。だが私が祈るとき、なんと言うのでしょうか、とあなたは問うておられる。あなたは、神と率直に、また信頼をもって語るべきです。ですから、あなたは神について疑いをもっていること、また祈りを信じていないという事実を神に告げてお始めなさい。あなたの疑問が除かれて、神を確信し、神があなたの祈りをききたもうことを確信することができるように、あなたに近づき、あなたと語りたもうよう神に願いなさい」(『私はなぜキリスト者であるか』29〜30頁引用)

私自身、現在の住んでいる場所に縁ができたのはキリスト信仰との関係ですが、そのもっとも初期の頃、この町の駅頭にある中華そば屋さんの店内でひとりで食事した時のことは忘れられません。そのとき、私は周りの人がいるのに、一人で主なる神様に祈ってから食事をしようとしたからです。その時、不思議なことですが、目を開けて気づかされたことは、まわりの人々が家族や友人たちと楽しげに食事している姿が、急に色褪せて見えたということです。それは確かに肉をほうばり、おいしいスープを啜っていても、もしその人が生けるまことの神様との交わり(祈り)がなければ、それはただからだが動いているだけなのじゃないかという新しい発見でした。

目に見えない神さまと今自分がそんなにしげしげとお話しているわけではありませんが、少なくとも、私自身はやはり新約聖書を読みながら、祈る者と変えられていったことは知らず知らず懐疑者から信仰者へとギアチェンジがなされていくときの大切な経験であったのではないかと思うのです。

(※この方は渡瀬譲氏でその略歴は異色を極めているが、少なくともこのことばを大学の卒業アルバムに書かれたと言うことは知る人ぞ知るの世界ではないかと思います。参考までに聖書のことばを書き写しておきます。「イエスは言われた。『あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。』イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。 また言われた。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』」マルコ7・18〜23)

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