2013年3月17日日曜日

救いの道(4)欺かれないでください

どこへ行っても、ほんとうは救われていないのに救われていると信じ込み、誤った土台の上に立ち、まちがった経験に安んじている人々を見ます。幾千という教会員、何百という自称クリスチャンは、自分たちの天国に対する望みを説明することができません。彼らは、自分たちは正しいと思い、また神に会う用意が十分にできていると信じています。彼らに、二、三の簡単な質問をしてみれば、彼らが異邦人と同様に、神の救いに関して無知であることがわかります。サタンは彼らの目と耳を閉ざして、理解を鈍くしています。それは、彼らが欺かれた状態におり、回心していないためです。彼らの魂は暗黒の中に閉じ込められ、サタンは彼らを暗黒の中に置こうと懸命になっています。その人たちはたいてい、教会でも活発に働き、委員会やその他の会合にも忠実に出席し、いつでも善良で道徳的な人たちですが、救われていないのです。

このように、これでいいのだという誤った信念の中に死んでいく魂が多いという事実を知るだけに、わたしははっきりと救いの道を示して、多くの人々を永遠の滅亡から救いたいのです。考えてみて下さい。教会員がクリスチャンでありながら、自分たちに対して天国のとびらが閉ざされていることを知った時の絶望的状態を、一生、まじめに熱心に働いただけに、その失望も非常に大きいのです。

ですから皆さん、わたしがその救いの道を示すことを許していただきたいのです。また、あなたが救われていてもいなくても、わたしのことばにしばらく耳を傾けていただきたいのです。それは、あなたが欺かれないためです。

人は、いつも救われるためには何かをしなければならないと心に思っています。遠いインドには、恵みや永遠のいのちは神からの賜物であることを知らない人々が多く、彼らは自分の功績や努力をもって救いの達成に全力を尽くしています。ある人は炎天にさらされながらくぎの床に横たわり、またある人は火の上に自分をつるしています。ある人は沈黙の誓いを立てており、また動かなくなるまで手を上に上げています。多くの人は巡礼の旅に出て、何百キロもはったり歩いたりします。その時、二メートルごとに全身を延ばすのです。何千人もの人々が救いを得ようとして、ガンジス川で自分のからだを洗います。

また、ギリシャ正教も、ユダヤ教、カトリック教もすべて、自分の行ないによって救いを得ようとして、くり返し何かのわざに励みます。なんという恐ろしい束縛でしょうか。また、なんと恐ろしい人為的宗教の奴隷下にいることでしょう。人は救われようとして、なんという困難なわざに励むことでしょう。しかし、神は明確に、またくり返し語っておられます。永遠のいのちは賜物であって、決してわざによって得られるものではないと、あなたが賜物としてそれを受け入れなければ、永遠のいのちを所有することはできないのです。

聖書には明らかに、「自分の救いを達成してください」としるされていますが、「救いのために働きなさい」とはどこにもありません。神がまず働いて下さるまでは、あなたが救いのために働くことはできません。また聖書の中には、「あなたがたのあがないのために働きなさい」とも書かれていません。二千年前、すでにキリストは救いのみわざを成し遂げて下さいました。もしわたしたちが、自分自身のあがないのために働かねばならないとすれば、なんという絶望的なことでしょうか。神であって人の形をとられたかたではなくては、それはできないことであるからです。

ここに、ひとりの大学にはいった青年がいるとしましょう。彼は試験に合格し、授業料を払ってはじめて学生になります。教務主任は彼に、「大学の課程を修めなさい」と言いますが、まず学生として認められなければ大学の課程を修めることはできません。学生として認められてから、彼は四年間勉学を続けるのです。友よ、あなたの救いもこれと同じです。働く前に、まずその救いにあずからねばなりません。神があなたに対して働かれた時、あなたも働きだすのです。あなたは決して、神の賜物を得るために働きだすことはできません。

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳14〜16頁より引用。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。」新約聖書エペソ2・8〜9有名な日本の言い回しに「分け上る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」とあり、仏教であろうとキリスト教であろうとゴールは同じだとする考え方があります。しかし、聖書は明確に行ないによる道と神の賜物を受けて歩む道を峻別しています。さしずめ今日拝借したこの本の表紙の挿絵はそのことを示しているのでないでしょうか。)

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