カール・ブロック聖画選より |
なんという愚かなことでしょう!
イエスを縛ったなわ、それは全くこっけいなしろものというほかありません。
一言で湖上の嵐を静めたお方、一言でラザロを死のなわめから解き放たれたお方、悪霊どもを制する力をお持ちになったお方・・・このイエスを数本のなわで拘束できるというのでしょうか!
このなわは、人々が、こんにちに至るまで、神の御子のお力について大変な思い違いをしていることを、示します。
しかし、なぜ主はかくもおだやかに縛られたもうたのでしょうか? なぜ主はなわめを引きちぎり、反対者の足もとに投げつけてくださらなかったのでしょう? そうなればどんなに格好よかったかしれません。なぜそうなさらなかったのでしょう?
それは、主が十字架に引かれ行こうと心に決めておられたからです。主イエスは、数百年前に預言者イザヤが予告したとおりのお方でした。「彼は・・・ほふり場に引かれて行く小羊のように・・・口を開かない。」「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした」(53章)
主イエスがこのこっけいななわめを受けられたのは、ご自身、そうされようと心に決めておられたからにすぎません。人々が押しかける一時間前に、主は静かなゲッセマネの園で御父にお告げになりました。「飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりを 」と。こうして主はこの苦しき杯を飲みほされました。
十字架の死が、この世のためにどれほど必要であるかをご存じの主は、自ら両腕を差し出してなわをお受けになりました。
主よ! 私たちの目を開いて、贖いのみわざを悟らせてください。
アーメン
(『365日の主』ヴィルヘルム・ブッシュ著岸本綋訳3月3日の項目より引用。確かにブッシュ氏が指摘されるように、イエス様が受けられた縄目は不思議です。縄目と言えば怪力サムソンについての旧約聖書士師記15章16章の記述を思い出しました。何というちがいがあることでしょうか。)
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