2013年3月12日火曜日

うたがいから信仰へ(8)

彦根城西の丸から琵琶湖および湖北の山々を眺望する
「絶対者と面接するとき、人が行なうべき唯一のことがあります。無条件の服従に身をなげ出して絶対の信頼をするということであります。真剣な祈りの中でキリストについての新約聖書のあかしを研究したすべての人はこのことを知っています。このようにキリストが私どもから得る信頼こそ、キリストが語りたもうことに私どもがたよることをあたりまえのことにするのです。(中略)

『神の前では、私どもは、いつでも誤っている』ということばでゼーレン・キルケゴールが表現する事柄を私どもが経験したならば、その時、私どもの真実の主としてキリストを知るのです。またキリストに身をなげ出すことは、私どもを発育のとまった意気地のない存在者にするのではないのです。反対に、無条件的な信頼と服従の中でキリストに身をなげ出すことを許される内的解放を経験するのです。私どもがキリストに全心的に保留なく身をなげ出せば出すほど、私どもはますます私ども自身を見いだし、自身の姿を保つことに成功するのです。」(『私はなぜキリスト者であるか』42〜43頁)

私自身、神の存在をはっきり証明されれば信じてもいい、とどれだけ願ったでしょうか。しかし事はそのようには運びませんでした。ある時、神学生の方にどうしても信じられないのだと苦渋を訴えました。そのとき、その方は私に一つのみことばを紹介してくださいました。

(この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、)宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(新約聖書 1コリント1・21)

私は自身の願望は空しいものであることを、このみことばをとおして知らされました。またそのころむち打ち症を患って電車で時間をかけて足利から保谷市までカイロプラクティックの治療に向かったことがありました。その治療をしてくださった方はカナダ出身の女性の老宣教師でした。私は思いあまって彼女にもみことばの助言を求めました。その時彼女が間髪入れず示してくださったみことばは以下の言葉でした。

主を喜ぶことは、あなたがたの力です。(旧約聖書 ネヘミヤ8・10)

私にとって主を知ることが永遠の課題であり、そちらに向かって何とか手がかりをつかもうとしていたのに、はじめて「主」を「喜ぶ」ことこそ肝要なのだと、いきなり有無を言わせず、ドンと肩を圧されて主の前に出された思いがしたのです。そうしていつの間にか、キリスト信仰は、私の認識の問題でなく、私自身がわからないながらも主を、直接聖書のことばをとおして信じ、体験していく道へと歩みはじめたのです。

こうして私はハレスビーの前掲の表現を借りるなら「無条件的な信頼と服従の中でキリストに身をなげ出すことを許される内的解放を経験」していくようになるのです。

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