2013年3月2日土曜日

うたがいから信仰へ(5)

いつの間にか、こんなにきれいに、花を咲かせてきましたよ。
ここで私がどのようにして新約聖書を読めるようになったかの証をさせてください。実はくわしいことはわからないのですが、ハレスビー自身もノルウエーという日本に比べればはるかに福音の満ちている国で成長しましたが、遅くまではっきりとした救いの確信は持てなかったようです。おそらくそれが彼にこのような本〈私はなぜキリスト者であるか〉を書かせた理由でないかと私は勝手に想像しています。彼の求道の歴史はある点で私が理解できるものでした。それはやはり新約聖書の奇蹟に富む記述がつまずきだったからです。

しかし、私にはいつの間にか、そんなことが少しも気にならなくなったのです。それは聖書全体がわからないでいたのですが、その中に書かれているほんのわずかなことばをどういうわけか自分が信頼し始めたことによるようです。たとえば次のようなイエスが語ることばが私の心の中にはっきりと座を占めたのです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(新約聖書7・37〜38)

 当時(20代半ばのころ)、もちろん今もそうなのですが、私は人を愛することができない、また人の前で素直になれない悩みを抱えていました。自分がどうしてもありのままの自分でなしに、取り繕うとして顔がこわばるのです。また自分よりもすぐれた人を見るとその人に対してライバル心を感じてしまうのです。そんなおりだったのでしょう。このみことばがすっと心の中に入って来たのです。私の内側には何にも人を愛する思いはない。しかしここにイエスを信じる者は、そのような私の汚い心を越えたもっと奥深いところから、こんこんと尽きない泉のごとき愛が流れ出て来る。その愛を主は下さる。その愛をもって人を愛することもできるのだという喜びでした。

そしてこの短いことばの中に、すでに矛盾を感じていました。これは聖書の中の一節だのにどうして「聖書が言っているように」と言えるのだろうかと疑問を感じたわけです。けれども聖書をとおして語りかけて来る圧倒的な主の愛が私に臨み、そんなことはどうでもよくなりました。そしてその疑問も信ずるうちに聖書自身によって答えが与えられたのです。ここでイエス様が言っておられる「聖書」とは人としてのイエス様も知っておられた「旧約聖書」のことを指しているのだと後にわかるようになったからです。

さらにずーっと後に、それは何年もしてからですが、この聖書のことばの続きに書いてある次のみことばにも目が開かれるようになったのです。

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。(ヨハネ7・39)

すなわち、信ずる者の内に住んでくださる御霊の存在でした。こうして一事が万事、わからない、それこそ超自然的と思われることがらも自分とイエス様の関係がしっかりして来るに連れて徐々に疑問は疑問としてありながら、何年か経つといつの間にか理解できるように変えられているのです。それは不思議なことです。

ハレスビーはこの本の最初の方で懐疑者に対して、あなたのもつキリスト信仰に対する懐疑は 「論理的な議論によっては克服できない、ただ体験のみによってできる」(同書24頁)と言っています。昔の記憶ですが、内村門下の経済史家であった大塚久雄氏がキリスト信仰は「実験」であると言っていた覚えがありますが、同様のことを指しているのではないでしょうか。

とにかく新約聖書をだまされたと思って、わからないところは飛ばして結構ですから、読み続けてください。世の宗教(仏教だけでなくキリスト教もふくめてです)が与えるものと全く異なるイエスの与えるいのちがお読みになる皆様の心にきっと流れ込んで来ると私は確信します。最近つくづく聖書は「宗教批判」の書だと確信するようになってきました。

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