2013年3月18日月曜日

救いの道(5)私の債務は全部支払れた!

          イエスさまは おもい じゅうじかを せおって                  カルバリの おかを のぼって いきます。(絵本聖書)
人は自分を救うために、何もすることができません。世のさまざまな宗教を見ると、人間は神に向かって進もうとしています。すなわち、自分のいさおしによって救いを得ようとしています。しかし聖書が示す真実は、神のほうから人間に近寄って下さったという事実しかありません。これは、神の恩寵です。羊を装ったおおかみが、わたしたちの兵士に戦場で死ぬならば永遠の命を得ることができると言いました。また、もし人が自分の命を国のためにささげるならば、天国へはいることができると言いました。しかし感謝すべきことに、兵士たちは自分たちが神に会う資格のないことを知っていました。

歴史上の戦いで流された血は、どんな小さな罪をもきよめることができません。しかし二千年前、神でありながら人の形をとられたイエス・キリストがカルバリの丘で流されたとうとい血は、すべての時代のすべての罪をきよめるのに十分なものでした。人は、永遠のいのちを得るために何もすることができません。主イエスはカルバリの丘で「完了した」(ヨハネ19・30)と叫ばれました。人間の救いのために「すべてが終わった」のです。その完成されたわざに、人がいまさら何を加えられましょうか。

もし道徳や人間の義が完全であるならば、キリストが死なれる必要はありませんでした。「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラテヤ2・21)。もし人間に自分を救う力があるとするならば、キリストの死は世界史上最も残虐なものと言えるでしょう。しかし、神は人間の無力や救い主を要していることをご存じでした。だからこそご自分のひとり子を下さったのです。人は救い主を必要としています。道徳は人を救うことのできないものです。

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18・9〜14)

パリサイ人は終始、「私は、私は」でありました。 「私は・・・断食し・・・私は・・・ささげています。私は・・・他の人たちのような・・・でない」と。それは宗教であり、極端な自己主義です。今日、多くの人たちにあなたの救いの根拠はどこにありますかと尋ねるならば、たいていの人は「私は教会へ行っています。私は十一献金をしています。日曜学校の先生をしています。私は受洗しています。私は教会の役員です」などと答えられるでしょう。どれもこれも皆、「私、私、私」です。そこには「キリスト」は全然ありません。「キリスト」がなさったのではなく、「私」が何をしているからというのです。罪人のかしらであると言ったパウロは、どうだったでしょうか。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言っています。わたしたちは、罪人としての自分自身を認めようではありませんか。罪人、それがわたしたちの永遠の性質なのです。そして、キリストが何をして下さったかを誇ろうではありませんか。わたしたちの義は、汚いぼろ布であり、「イエスがすべてを払われた(※)」ことを忘れてはなりません。

罪人よ。
大いなるわざも小さなわざも
神のみまえにては力なし
主イエスが救いのために
すべてをなされたゆえに

(『道は二つしかない』オズワルド・J・スミス著斉藤一訳17〜19頁をもとに引用者が構成しました。※オズワルドは「 」書きで聖書の引用句であることを示しているようです。このすばらしいことば「イエスがすべてを払われた」の含意するところは、1コリント6・20やコロサイ2・14やマタイ18・24以下などがありますが、残念ながら私にはこれにあたる聖句を直接思い出すことができませんでした。読者諸兄姉の中で思い当たる方がおられたら是非コメント欄で投稿してみて下さい。)

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