2018年6月19日火曜日

みことばのありがたさ

琵琶湖の離島沖の島から帰って来る船

主よ。お救いください。(詩篇12:1)

 日曜日、礼拝に出られなかった。礼拝したくなり、電車内ではあったが、スポルジョンのアプリを開いた。"Help, Lord."の文字が飛び込んできた。その折、自分が最も必要としていたみことばであった。同時に、同じ詩篇12篇には5節〜6節に次のように書いてあった。

 主は仰せられる。
「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、
 今、わたしは立ち上がる。
 わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」
 主のみことばは混じりけのないことば。
 土の炉で七回もためされて、純化された銀。

 「今、わたしは立ち上がる。」とおっしゃるすべてのことをお任せしようと思った。主なる神様は、悩む者、貧しい人を放って置かれないお方であることがより一層わかった。

 スポルジョンの文章を以下少し引用してみよう。
 この祈りはすばらしい。それは短いが適切であり、寸鉄人を殺すの味を持ち、かつ暗示的であるからである。ダビデは忠実な部下が少ないのを嘆き、願いのうちに心を天に向けた。被造物が頼みがいのないのを見て、彼は造り主のもとに走った。彼は明らかに自らの弱きをおぼえた。しかし同時に、真理のために心から自分の力を尽くさんとした。なぜなら自ら何もせずに助けを求むることはあり得ないからである。この短い祈りは単刀直入であり、極めて明確である。ある信者たちの長々しい祈りにはるかにまさる。詩篇記者は熟考せる祈りを携えて一途に神のみもとに行った。彼は何を求め、またどこに求むべきかを知っていた。・・・・
(『朝ごとに』6月17日より引用)

 家に帰って邦訳文を朗読しているうちに自らの罪深さ(主を信じきっていない)を思い、内から涙が次々出てきた。寸鉄人を刺す。スポルジョンの霊想は、澱みきった私の信仰を内側から正し続けてくれる。感謝である。

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