大学前のお堀に遊ぶ四羽の白鳥ら 4/2 |
罪は敗北以上のものである。それは腐敗を意味している。それは、つづれ織りを醜くするよごれや切り傷のようなものではなく、菌状腫で繊維にはいり込んで行ってそれをだいなしにしてしまう、白かびのようなものである。また、罪の猛威は決して、ひととなりや経験だけに限定されるものではない。全被造物がその被害をこうむるのである。聖書は「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」天使たちについて語っている(ユダ6)この聖句が、どのような違反をばく然と暗示しているにしても、天使の世界の秩序が罪によって着色されたことは明らかである。人類も、個人としても全体としても、罪に染まってしまった。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(旧約聖書 詩篇51篇5節)。物理的世界さえ、その影響の外にはない。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生じ……」(創世記3:17〜18)とは、人間の罪の初めに、大地に向けて宣告された言葉である。
この「世界」を、どの範囲に限定して解釈すべきかは、明白でない。それを人類の領域に限らなければならないとは考えられない。それが有形的宇宙のすべてを含むかどうかは疑問である。だが一つの事だけは明らかである。もし、私たちのすみかである宇宙が一つの統一体であるならば、そのどの部分も、他の部分に影響を及ぼさずに腐敗することはない、ということである。私たちが、この巨大な宇宙は相互に作用し合い、相関関係を維持しながら存在しているということを、知れば知るほど、それがどのようにであるかは理解できないにしても、罪がそのすべてに影響を及ぼしているということは、理解しやすくなるであろう。聖書にも、罪の腐敗が、私たちの想像を越えて、はるか広範囲にはびこっていることの暗示が幾つかある。
次の個所に注意していただきたい、
「それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(新約聖書 ローマ8:20〜23)。
からだのあがない、すなわち復活は、ここで、腐敗のなわめをのがれて神の子の栄光の自由に救い入れられることに等しいと言われている。これは、復活の日が、全自然に対して、自由の新しい調べをかなでるということを意味するのであろうか。老朽と腐敗とが、いずこにおいても停止してしまうということは、考えられないことではないだろうか。とりとめのない極端な空想を働かせても想像できないような新しい世界が、それでもいつの日にかこつ然と実現するということは、ありうるのだろうか。
おそらくこの見通しは、保証の域を超えた思弁の世界に足を踏み込んだものであろう。十分考えうる事でも、なかなか実現には至らないものである。しかし、人間が不死と不朽を享受しているときに、他の生命形態あるいは有形的被造物の世界では、衰弱と腐敗とが進行する、というような世界はもっと不合理である。もしこれが空想を働かせすぎたものであるなら、私たちは少なくとも、次のように言うことができよう。人間関係の世界における罪の腐敗は、まもなく除去されるであろう。それとともに、それに誘発された原因結果の悪化、奴隷化の鎖も、永久に葬り去られるであろうと。復活は、まさしく、古きをしのぐ新しい世界の平面を導入するものなのである。
動きのある白鳥の画像、ステキです。手前に桜のアップを入れるなど、構図上も⚪︎。
返信削除写真をクリックすると、大きくてきれいな画像が見られること、皆さんご存知でしたか?
早速コメントありがとうございます。あっという間に、白鳥はいなくなりました。大学構内から出て来た時にはもういなくなっていたからです。タイミングというのがあるのですね。
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