2024年4月22日月曜日

復活の熱情(序)

庭先のクレマチスが、いつの間にか花を咲かせているのに、気づきました。私は、その余りにも、解放的な開花ぶりにはいつもびっくりさせられます。(もっと、お淑やかに、花を咲かせていけばいいのにと思って・・・)しかし、こんなに美しい花弁をじっと我慢していたとしたら、時満ちてパッとばかりに花を咲かせるのも当然なのでしょうね。

復活を実地に経験した弟子たちは、失意、絶望の中から熱情の使徒に変えられます。彼らなら、「クレマチス」のこの心に共鳴することでしょう。引き続いてメリル・C・テニーの『キリストの復活』の第六章「復活の熱情」からの引用です。

神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒2:32)

 ある日曜日の午後おそく、いくじなさそうな、落胆しきった十人の男たちが、エルサレムのとある二階の座敷に、ふさぎ込んですわっていた。三日前に、彼らの愛する師、また希望の柱であった指導者のイエスが、ユダヤの最高聖職者たちとローマ総督との決議によって。殺されてしまったのである。この不意のできごとに、彼らはただ、悲嘆にくれるばかりであった。幸いなきのうの記憶も、ただ連想のかなたのものであった。的を射るようなたとえ、不正に対する批判の鋭鋒、また、明察に基づくその教えの持つ威厳ーーすべては過去のものであった。罪のゆるし、永続的な心の平和、御国の到来について、彼が与えられた約束も、今では価値のないものに思えた。「彼の墓は悪者どもとともに設けられた」(イザヤ53:9)者が罪をゆるすということが、どうしてありえようか。恥辱の十字架の上で苦悶の死を遂げた者が心の平和を与えるということが、どうして可能であろうか。自分をさえ救いえなかった者に、どうして御国の到来を説く資格があると言えよう。永遠の義に対する彼らの信仰さえ、今では動揺せざるを得ない。義にして主権者なる神が、彼のように全き生涯を送った者を、あのような死の苦難にあわせられようとは、とても考えることができなかったからである。

 明らかに、彼らの集会は、彼らの熱心さの告別式をしか意味しえないものであった。彼らは、偉大なメッセージを持ち、よい動機に励まされて、事をしてきたように思っていたが、イエスの死とともに、いっさいは、穴のあいた風船のようにしぼんでしまったのである。イエスが民衆の眼前で、あの恥辱の死を遂げられたため、彼らは、彼を弁護するために声をあげることさえ控えた。それに、彼に忠誠を誓った者として身を現わすことは、あの際、危険であった。しかも彼らは、イエスに出会う前の自分たちに戻ることもできずにいた。それにしては彼は、あまりにも深い、打ち消しがたい印象を彼らに与えたのである。絶望の苦々しさと、思い出ーーそれも悲しい思い出ーーしかないであろう未来の殺伐さとのために、彼らは、人生や仕事に対する励みや熱を、すべて奪われてしまったのである。

 そのとき突然、集まりの暗がりの中で、彼らはだれかの存在に気づいた。彼らの耳に、聞きなれたかたの声が響いて来たのである。「平安があなたがたにあるように」ーーそして、まさにイエスが、彼らの前に立っておられるではないか。彼らは、自分たちの五感を信ずることができなかったため、彼に仰天し、自分たちは何か強い幻覚に襲われたのではないかと、互いに驚き合った。しかし、そうではなかった!

 「御手御足には傷を受け
     わきには刺し傷」

 傷跡を認めて、「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)。よみがえりのキリストの現実性が、彼らの態度を全く変えたのである。悲しみは喜びに、恐れは信仰に、そして落胆は希望に所を譲った。また、主とともに持った過去の経験も、彼が生きておられたことにより、あるつきまとう記憶というようなものではなく、動的な力として感ぜられるようになった。

 失意の人たちに、よみがえりのキリストが現われたもうことによって、彼らの中には、新しい熱情が生まれた。そしてそれは、ペンテコステの風にあおられて、ついには、教会の樹立を促すものとなったのである。真のキリスト教が存在する所には、どこにでも、真実の熱情のたぎりが見受けられる。キリストの福音は、ディレッタントがたいくつしのぎにもてあそんだり、学識者たちが、その個人に対する呼びかけにもかかわらず、超然として議論しえたりするものではない。それは真であるかないかのいずれかである。しかも、真でなければ、永遠に放棄されてもしかたのないものである。しかし、もし真であるならば、それは、私たちが衷心からそれを信奉し、また、無限の熱意をこめて、地の果てに至るまでそれを宣べ伝えることを、要求するのである。もし人々が、ただの人、しかも限られた期間だけ官位につく人の選挙に対して、熱狂的になりうるとすれば、神によって、救い主またさばき主になることを定められ、その身分を保証された、よみがえりのキリストの現実性に対して、私たちが熱情を示すのは、当然のことではないだろうか。

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