2024年4月6日土曜日

復活の事実(2)

水仙と フェンス越しに 見合いする
ここは埼玉県総合治水事務所(※)の一角である。このフェンスの向こうがその敷地であり、ひとり生えであろうか、水仙が四輪、花を咲かせていた。こちらは公道を散歩している。そして魅入られて近づく。一方、近づいて来る私の姿は水仙にはどのように見えているのだろうか、とつい想像したくなる。水仙は何もことさら、ここで取り上げるまでもなく、身近な草花で、それこそ冬から春にかけて私たちの季節への期待を先取り、しかも見届けるかのようにいつまでも咲いてくれている。桜の花のようには持て囃されないが、中々どうしていい花である。

さて、今日もお約束どおり、昨日の文章の続きを転写する。文章は決して読みやすい文章ではない。魅入られるようなものではないかもしれないが、上の私の感想ではないが、この文章は、水仙がフェンス越しに私を見ているように、私たちをじっと見つめているような気がする。その奥には生けるまことの神様の目がある。翻訳者の個人名が明記されていないが、おそらく、松代幸太郎氏らであろう、昭和37年(1962年)、信仰良書選のトップバッターとして世に出た出版物である。私にとっては、まさに以降10年弱の魂の咆哮するとば口にさしかかっていた時期の作品である。

 復活がこのように、信仰のための事実上の基礎として、主要なものであるということは、キリスト教教会の最初の説教者たちには、はっきりと理解されていた。未信者に対して語られた使徒行伝の十三の説教のうち、八つは、復活を、中心的教理、また、論争の余地のない信仰の証拠として、強く主張している。他の三つには、使徒行伝二十二章の民衆に対する説教において、パウロが、自分はよみがえりのキリストと話をかわしたことがあると主張しているところからもうかがわれるように、そのことが明らかに含意されている。残りの二つ、復活が述べられておらず、暗示されてもいない場合は、たとえば、ピリポと宦官の会話の例のように(使徒8:26〜38)、明らかに、他の問題が優先的に扱われなければならなかったのである。しかも、この場合においてさえ、復活について言及されていないということは、ピリポがそれについて何も語らなかったということを意味するわけではない。と言うのは、その個所では、彼の話の出発点が明らかにされているだけであって、そのあとのことについては、「この聖句から始めて、イエスのことを宣べ伝えた」と、総括的な表現がなされているだけだからである。使徒行伝の中で、語られたことの断片としてではなく、その全部を一つのものとして記録している、最も有名な二つの説教ーーペンテコステの時のペテロの説教(使徒二章)と、ピシデヤのアンテオケの会堂でのパウロの説教(使徒13:16〜41)ーーは、直接復活に基づいて語られたものであり、議論の相当な部分を、この事のためにさいている。コリント人への第一の手紙十五章においても、パウロは、いかなる種類の復活をも認めまいとしていた人々に挑戦して、答えを与えている。彼は反論の中に、私たちは、復活こそ、他の多くの事実の中でも特にキリスト教の主要な骨組みを形成する最も重要な事実であり、彼が事実その説教で、復活に、それにふさわしい主要な位置を与えているということを見るのである。

 復活が主位に置かれる理由は、決して、突き止めにくいものではない。故J・グレシャム・メイチェン博士がかつて述べたように、キリスト教は、概念の複合体の上に形成されたものではなく、歴史の事実の上に基づくものである。もし私たちの信仰が、単なる善意の思想家の案出した、他の体系よりも一貫性のある哲学といった程度のものでしかなければ、それは、時を経れば、更に優秀な思想家が編み出す他の体系によって先を越されるか、または、他の集団の人と比べてよくも悪くもない一群の人々の信念にしかすぎないと言って、論争の種となるだけであろう。世界観としては、それは、他のすべての、この世界を体系化させ克服するある方法形成のための、人間的な努力と考えられる世界観に伍する位置を占めるものである。しかし、キリスト教は、世界観以上のものである。それは超自然的な人格神が、歴史の明確なできごとを通して、人間の事態に介入されたことを説明するものである。そして、復活こそは、超自然的な神の生命が、平常の人間生活が営まれている時間、空間の連続の中に接点を持ち、その現実と力が、争われたり否定されたりすることを決して許さないものであるということを、決定的に印象づけるものである。

 このような途方もない主張が、具体的に立証されなければならないことは、言うまでもないであろう。それが真実でなければならないとすれば、復活は、キリスト教の礎石であるばかりか、歴史上の最も重大な事実でもなければならない。とすれば、この墓からのキリスト復活の物語が、単なる無益な伝説でもなく、また、ある宗派宗教の宣伝という目的から故意に創作された話でもないということを示すために、どんな証拠があげられるであろうか。その回答として、私たちは、その真実性をあかしするものとして五つの異なった明白な証言を提出することにしよう。

https://www.pref.saitama.lg.jp/b1015/123jimusyonoannaizu.html

もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(新約聖書 1コリント15:17〜19) 

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