2024年4月16日火曜日

復活の信仰(4)卓越性に対する

メリル・C・テニーの『キリストの復活』は第3章として「復活の信仰」を四つの点に分けて、すなわち、1(キリストの)約束に対する信仰 2(キリストの)人格に対する信仰 3(キリストの)目的に対する信仰 4(キリストの)卓越性に対する信仰を表しているが、今日の個所はその最後の個所である。

その「卓越性」にちなんで、「卓越」とは何か、考えてみたが、身の回りにその例がないことに思い当たり、これは困ったわいと思わざるを得なかった。かろうじて大谷翔平氏が卓越したホームランバッターであったことや、富士山が日本一高い山であることはわかったが、それ以上考えが進まなかった。ましてや春の風物でそのようなものを見つけるのは難しかった。ただ道沿いの、あるお宅の庭に芍薬(しゃくやく)が見事に咲き揃っているのには、目を見張らされた。カメラに収めたかったが、「盗撮(?)」の恐れゆえ遠慮した。その代わり空を見上げたら、今夕の空は三様に分かれており、その一部の雲を見上げているうちに、自らの「卑小さ」を示された。卓越性を知ろうとする前にまず己の卑小さを認めよと神様から言われているような気がして随分楽になった。未だかつて死を克服した人間は誰一人としていない。それを成し遂げられたイエス・キリストの卓越性に私たちはもっともっと目が開かれる必要があるのではないか。以下、メリル氏の論述に耳を傾けたい。

四 卓越性に対する信仰

 彼が今も生きておられるとすれば、私たちは彼をどのように評価するであろうか。その死と復活とによって、彼が人々の救い主であり、私たちすべての運命を解くおかたであるとすれば、私たちは彼をどのように遇するであろうか。 

 彼は、私たちの思考の中心に置かれなければならない。時代から時代へ、人々は、宇宙のなぞを解こうと努力してきた。私たちはどこから来たのか。私たちはなぜ今生きているのか。そして、どこに向かって進んでいるのか。これらの問題にはっきり答えうるおかたが、ここにおられるのである。彼は、ご自分が神から出て来たこと、神のみこころをなそうとしていること、また、神のみもとに帰ることを知っておられた。そのようなかたとして、彼は私たちに、人間は神によって創造されたのであり、それも神に奉仕するために造られたのであり、また、彼は御自ら備えに行かれる場所を彼らにわかち与えられる、と教えられた。私たちの生活の秘密を解くすべてのかぎは、彼の腰帯に下げられており、彼との関係に入れられるとき、私たちは、困惑の種にことかかないこの世界での、自分の正しい位置を、見いだすことができるのである。彼は、私たちの人生観の主位を占める価値を十分に持ちたもうおかたである。彼こそ、「死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです」(コロサイ1:18)

 彼は、私たちの生活の中心におられなければならない。ひとりの人物を、私たちすべての者の行為の模範とし、また、私たちすべての者の倫理の基準とするのは、おかしく思えるかもしれない。しかし、そのことは神の御定めなのである。「神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによってこのことの確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒17:31)。復活は、神が彼を全生活の基準として承認しておられたことの確証である。私たちは、神のさばきの座の前で、彼によってさばかれ、量られるのである。

 したがって、復活によってイエス・キリストは、他のあらゆる指導者と区別される。彼らは、神および義務について、また、外なるあるいは内なる世界について、多くのことを語りえた。その多くは、賢明な、価値あるものではあったが、その言葉をもってしては、私たちの人生の秘義はついに解かれなかったのである。しかし、人々が議論を沸かせていたとき、彼は事を実行された。人々が人生の意味を論じていたときに、彼は死からよみがえられた。このようにして彼は、信仰の確実な基礎を提示しておられるのである。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」(ヨハネ14:19)。

 物議をかもしだすかもしれないが、この途方もない事実は、私たちの反応を待って、今も私たちの面前に置かれている。私たちの態度は、信仰か不信仰かのいずれかである。この際、他の立場をとることはできない。そして私たちの運命は、この選択にかけられている。みことばは言っている、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:9〜10)。きょう彼を信ずる者となっていただきたい。彼は、私たちの罪のために死なれた。しかし、私たちのために取りなし、私たちをささえるために生き、また私たちをご自身のみもとにおらせようとして、再臨の時を待っておられるのである。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(新約聖書 コリント人への手紙第一 15章55〜57節)

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