2024年4月10日水曜日

復活の事実(6)

「消化試合」という言葉がありますが、私にとって今日は「青春18切符」の使用期限最終日でした。合計5枚の切符は、この日までに未使用のまま2枚残していました。そのため、今日はこのJR一日乗り放題の切符を有効に使いました。言うならば、私の「消化切符」でした。写真はその帰りに車窓から写したものです。実は行き帰りとも車窓から見えたのは次々と展開してやまない沿線の桜並木の美しさでした。残念ながら、私の脳裏に残っているだけで写真には収められませんでした。ただ、振り返って見ると、今日の列車旅行の目的地は私にとってやはり記念すべき土地でした!

ところで、今日の「復活の事実」は同項目の最後のものとなりました。読んでいただくとお分かり願えると思いますが、後半に著者が指摘する三つの指摘はたいへん重要だと思いました。言うならば、この指摘は消化試合的なものでは決してありません。全力投球的なものです。是非、丁寧にお読みくだされば幸いです。

五 不本意な人たちによる証言

 復活の事実が、指導されることによってあるいは感情的な傾向によって、信ずる方向に導かれた人々にのみ、弁護されたのであれば、私たちはそれを希望的思考の所産とすることもできよう。しかしながら、過去の経歴や性向からしてそれに反発するような人々が、その真実さを承認しなければならなかったとしたら、私たちは、いっそうそれを信ずべきである。

 まだ古い話ではないが、フランク・モリソンという名で、「石を動かしたのはだれか」と題する本を著した人がいる。彼はそこで、イエスの生涯の最後の一週間を、分析的に論じている。彼は、復活に対する信仰の幻想を打破するという目的を、誓いをこめて立て、研究を始めた。その証拠を詳細に検討するならば、この信仰の愚かしさは、おのずから立証されるであろうと考え、聖書の霊感というようなことは意にも介さず、純粋に合理主義的な立場に立って研究を進めたのであるが、四福音書の証拠は、他のいかなる重力の作用もなく、彼を、出発したときの目的とは正反対の結論に追いやったのであった。彼はすべての事実を綿密に調査したのち、次のような説明をしている。

 そしてやはり、著者の考えるところによれば、どうしても、使徒信条の中で非常に論議された「三日目に死よりよみがえり」という文句には、非常に意義深い歴史的根拠があると考えられるのである。

 この証言は、十八世紀のギルバート・ウェストや、他の著者たちの経験とも、合致するものである。このようにして、キリスト教信仰に敵対的であった人たちが、この最も信じにくいとされている奇跡を信ぜざるを得なかったとするなら、私たちの信仰が単なるお人好しの果実であると、どうして言うことができよう。

 しかし、復活が事実だとしても、それがなんだ、と言う人もいるであろう。言うまでもなく、日が夜に続くように、復活には確かに、ある必然的結果が伴っている。

 第一に、もしイエス・キリストが、週の最初の日の朝、生きて墓からよみがえられたのであるならば、彼は、きょうも生きておられるのである。私たちは、単に、十九世紀前に英雄的な死を遂げた一人物の理想化された記憶を胸にいだいているのでもなく、また、教理体系の複合体を擬人化させて礼拝しているのでもない。彼はきょうも生きておられるのである。そして、世界における彼の事業は、今日においても、着々と進められている。目には見えないが、彼は決して非現実的ではなく、依然として人間の人格形成に携わっておられ、また、形あるものとして私たちとともにおられるわけではないが、依然として、指導と教えとに当たっておられるのである。

 第二に、復活によって、彼は他のすべての人とは違うことが主張されている。他の人たちは、よい生活を全うしたであろう。しかし、彼らの徳が神に喜ばれたということが、復活という形で公認されたことはない。他の人々は、英雄として死を全うしたかもしれない。しかし、その英雄行為は悲劇に終わった。それは、墓にのみ込まれたままだからである。他の人々は、偉大なことを約した。しかし、まだその約束を履行しないうちに世を去った。だが、キリストについては、「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された」(ローマ1:4)と言われることができたのである。彼が他のすべての者にまさる永遠の優越性を保持されるおかたであるということは、ただこの一つの偉大な勝利によって確立されている。

 最後に、私たちは彼に対するのに、生けるおかたに対するようにしなければならない。私たちは、歴史の地平線のかなたで姿をかき消してしまったかたの理想に忠実な者となることを求められているのではない。また、律法の定めによって罪のゆるしを求めているのでもない。ある運動や機構に奉仕しているのでもない。審判のときに、一束の倫理的な教条に対決させられているのでもないのである。「あなたはわたしを愛しますか」ーーこれが、よみがえられたキリストの、ぐらついた弟子に対する質問であった。それは、全人格を傾けて忠誠を誓いなさいという呼びかけである。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ1:9)「わたしは社会で、何をすることができますか」というようなことではなく、「あなたはわたしに何を求めておられるのですか」ということこそ、新回心者の問いでなければならない。また、「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒7:31)ということは、確実な未来に対する展望である。

 ヨセフの庭園の、からになった墓という、この途方もない、しかし最もよく認識された歴史の事実から、キリスト教の核心をなす教えであり、また、死に脅かされている世界に対する永遠の希望である、よみがえられたキリストに対する動的な信仰が、生まれて来るのである。

2 件のコメント:

  1. 私の不勉強の致すところですが、今の今まで「消火試合」は「消化試合」だと思っていました。
    と、ここまで書いてイヤイヤ消化もありかと。ネットで調べたところ、正解が分かりました。同音で異語のもの多いです。言葉(ワード)に最近敏感になっています。

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  2. 「校正?」ありがとうございます。当方は今の今まで「消化試合」と書いたつもりでいました。早速、訂正させていただきました。ごめんなさい!

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