2024年4月29日月曜日

『母の最終講義』(最相葉月著)

 世の中、ゴールデンウイークということで、各地の行楽地は賑わっているようですね。こちらは愚直に普段どおり、いつもの古利根川散策を敢行しました。その土手に上がる上り口に鎮座ましましていたのが、ご存知この「キショウブ」というアヤメでした。珍しく同行者の家内が、「この花、撮ったら」というので撮りました。(いわゆるアヤメは紫色のものを言うそうですが・・・)

 昨日、最相葉月(さいしょう・はづき)さんの書かれた『母の最終講義』を図書館からお借りしました。最相葉月さんを初めて知ったのは、昨年末、彦根に帰ったときに、本屋さんで『証し 日本のキリスト者』というとても大部な本の存在に出会ったことがきっかけでした。総頁数1000余に達する本は新刊書の中でも圧巻でした。著者がどのような観点からこの日本のキリスト者を訪ねて、このような本を出版されたか大変興味を覚えていました。

 ところが東京新聞の4月7日の朝刊の「家族のこと話そう」というコーナーにこの方のお母様が認知症を患われ、その介護の状態が手短に語られていました。そして、『証』という本を表わすために費やした6年にわたる取材経験が、お母さんの介護の力の源になった旨書かれていました。

 それで今日一気に読み上げました。短いエッセーの集まりですから、大変読みやすいですし、それ以上に、しばし立ち止まって考えさせられることが数多くありました。最相さんは1963年生まれ、私は1943年生まれですから、ちょうど20歳ちがいですが、私より地についた「終活」の備えをしながら、文筆活動を続けておられる様子を窺い知ることができました。それだけでなく、同氏がたいへん謙虚な方であり、ご家族のこともご主人をふくめて必要最小限包み隠すことなく語られていることに、たいへん好感を覚えさせられました。

 私は1981年に父の認知症発症と死を経験しました。その時は、今のように認知症に関する知識のなかった時代で、無我夢中の毎日でしたが、それこそ毎日「聖書と祈り」の生活をとおして大変な危機を乗り越えさせていただきました。もちろん、父に対する愛が果たして十分であったかというと、申し訳ない思いがあります。(最相さんの思いは、それこそ私の思いの代弁でもありました)あれから40数年、すっかり世の中は変わり、コロナ禍も経験し、認知症に関する理解はより一層進んできているようです。しかし、果たしてどうなのでしょうか。

 最相さんがふと漏らしている次のような気づきは貴重だと思いました。同書129頁より

最後に、先の青年に教えてもらった「静穏の祈り」を紹介したい。アメリカの神学者、ラインホルト・ニーバーの言葉だ。「神よ、変えることのできないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、そして、変えられないものと変えるべきものを見分ける知恵を与えてください」

 認知症対策は家族間の大きな問題です。親子の間、夫婦の間、親しければ親しいほど、そのギャップに泣きたくなることは請け合いです。しかし、考えてみると、主なる神様はニーバーの言葉を借りるまでもなく、日々私たちにみことばを通して語りかけてくださっているのですね。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(新約聖書 ピリピ人への手紙4章6〜7節)

知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。(旧約聖書 箴言8章12節)

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