2024年4月18日木曜日

復活の効力(1)霊的な効力(上)

沢ぐるみ 蛙(かわず)啼く声 聞きおりて
春はいよいよ本番である。あらゆる植物が一斉にそれぞれの開花へと向かっている。桜はまだまだその前哨戦であり、その大旗手だったのかもしれない。水量たっぷりの川を眺めながら、様々な草花の成育を身に感じながら今朝も散歩に励んだ。それだけでなく、今夜の雨をすでに予見するかのように、川辺であろうか、どこからともなく、蛙が快い啼き声を聞かせてくれた。

今日以降の復活の記事は正直言って、私にとって、理解するのに困難を感じた。それで予定を変更して、違う記事に差し替えようかと何度も思い、最後まで迷った。しかし、自然界の新生命の誕生に立ち会っているこの季節こそ、「復活」を考察するには最適だとも思い、何とか踏みとどまった。火曜日には私どもの孫である新生児のその後を見舞ってきたばかりで、こちらの方の体験は、まさに霊の人の誕生の仔細を説明している下記の文章を理解するには役立った。新生児は生まれ出たこの世に適応する全てを獲得していたからだ。耳があり、目があり、手足を力一杯動かしていた。まさに新生命そのものだった。


一 霊的な効力

 復活の力の第一義的価値は、私たちからすれば、その霊的な面における効力にある。しかし、こういうことは、実際の歴史的事実性を否定するものではない。エペソ人への手紙一章十九、二十節のパウロの祈りには、こう書いてある。

神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて・・・。(新約聖書 エペソ人への手紙 1章19〜20節) 

 この祈りは、未来ではなく、現在の経験を豊かにするためにささげられたものである。この聖句によると、キリストの復活は、驚異の念をいだかせても実用には不向きであると考えざるを得ない、博物館のこっとう品のような、私たちの現実生活には関係を持ちえない孤立したできごとではない。そうではなく、復活は、神のいのちの、この物理的世界における具体的効力の証明であり、ひいては、現世において、おもに霊的な世界の生活に適用されるものなのである。新生は、霊の人の復活にほかならない。神の働きはここから始まるのである。

 新約聖書には、多くのたとえが、新生の説明に使用されている。ヨハネは、生物学的な誕生を例とした。その福音書三章には、イエスがニコデモに語られた言葉が、次のように引用されている、「あなたがたは新しく生まれなければならない」(7節)。幼児が、無条件の潜在性を持ち、またその形成にあずかって力があるいろいろな影響力に耐えうるものとして、肉体の世界に生まれて来るように、私たちも、新しい世界での各種の新しい接触に耐えうるものとして、霊の世界に足を踏み入れるのである。ペテロも、この思想を反映させ、特に復活とそれを結びつけて考えている。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(1ペテロ1:3)

 生まれ変わりは、復活ときわめて重大なかかわりあいを持っているのである。

 パウロも多くのたとえを使用している。彼はキリスト者に対して、「古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てる」こと、また、「造り主に似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」ことを勧めている(コロサイ3:9〜10)。ここでは、以前の生活が、どうしても新しい着物と取り替えられなければならない古い着物にたとえられている。パウロはまた、テサロニケ人たちが「偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった」とも言う(第一テサロニケ1:9〜10)。更に、疎遠だった人々の和解、子としての身分を得ること、法的に義とされること、という表現をも使用する。これらのたとえの一つ一つは、救いのある面を表わすものである。しかし、彼が最もよく使用しているのは、復活のたとえである。新生していない人は死人ーー意志を伝えることも、反応を示すこともできず、また自分のために何をすることもできない死人ーーにたとえられている。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。ーーキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:1〜6)

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