2024年4月4日木曜日

復活の自由(3)罪の腐敗からの(下)

100年前の建物と400余年前のお城(※1)
今回の四泊五日の帰省(「青春18切符」を使用しての旅行日二日をふくむのだが)は、同窓会出席以外は全く何の計画も立てないものであった。親戚をも訪ねず、日を過ごした。こちらにいる時に、『出エジプト記』の世界に浸り、それは「過越(すぎこし)」の頂点でもあったが、それは同時に受難週とイースターを迎える良き準備の時でもあった。あわただしく、こちらを出る時には、カバンに三冊の本(※2)を忍ばせていた。その中の一冊が『キリストの復活』(メリル・C・テニー著)であった。その中の第4章の「復活の自由」をせっせとiPadを駆使してブログ作成を敢行した。結果的に我流ではあるが、その操作方法を少しは会得できた。

それよりも、私にとって、彼が明らかにした三つの自由を味わうことができたのは何よりも幸いであった。それは①罪の宣告からの自由、②罪の強制からの自由、③罪の腐敗からの自由である。そして火曜日に思い切って、母校を訪ねた意味がわかった。それは春この大学に入学した頃のことを鮮やかに思い出したからである。まさに内に汚れ切った自我を抱え、苦しみに苦しんでいた。やり場のない怒り、出口のない怒り、その癖、まったく罪の虜(とりこ)奴隷であった。

そこから自分は救出された、そしてこれからも救出されるという喜びであった。私は過去の罪の宣告から自由にされた。現在及ばずながらかつての自分が経験した罪の強制から自由にされつつある。そして、これから先、いつこの世の生を終えようとも罪の腐敗から完全に自由にされるのだ。そしてそれを可能としてくださるのが主イエス・キリストの十字架の死と三日後の復活であることをメリル・C・テニーの書物を転写する中で確信できた。

以下は、そのテニーの「罪の腐敗からの自由」の、昨日に続く部分である。

 私たちは、この(復活という)「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの」(1コリント2:9)をどうすれば例証できるであろうか。

   ある人が今、次元が二つしかない世界に住んでいるとしよう。この人は前後左右に動くことはできる。しかし、上下に動くことはできない。彼は、チェスの目の上を動き回る人のように、平面の上で動き、その全意識は、二次元の空間を規制する物理運動の規則によって条件づけられている。ここで、三次元の世界からの存在が、この二次元の世界にはいって来たとする。前者(二次元の世界の者)にとって後者は、その活動内容を問題外とするにしても、存在そのものが当惑の種であろう。後者が前者の視野を横切って、大またに歩くのは、前者にとっては、一連の足跡の出現と消滅としか映らない。後者は、二次元の空間では不可能な、三次元の空間における運動に従事しているため、奇跡的に見える。

   復活のいのちの現われは、確かに、私たちの現在の思考の世界に、生活の新しい平面または次元の導入を意味するものであろう。これは、罪は神に対する違反であるという特性を無視してそれは人間の生活を制限するという面だけを強調しようとするものではない。しかしそれは、神の力の完全なまた最後的な効果は、三次元の者が二次元の世界に与える不思議の感に比較されるような、人間生活における不思議を生み出す、ということを意味している。そこには、現在のあらゆる制約からの解放と、腐敗からの自由とがある。それは、この世における最上のものすら、顔色なからしめるものである。

   この自由は決して、単なる願望から出た夢想ではない。神は終わりのことを初めから計画しておられる。「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子の姿に似た者にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」(ローマ8:29〜30)

   すなわち、神の目には、わざは、すでに完成したものとして映っているのである。私たちがそのすべてを、経験として実感していないまでのことである。罪の宣告からの自由の事実については、私たちは、結構あかしを立てることができるであろう。私たちは今その確信を持っている。しかし今は、罪の強制からの自由に日々導き入れられている。罪の強制力が弱まれば弱まるほど、私たちの神による自由は大きくなる。しかも、私たちは、あの最後的な、罪の腐敗からの自由の栄光をも待ち望んでいる。「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる」(黙示21:27)と言われている永遠なる自由の都の一員に、いつの日か加えられることを知って、それを待ち望んでいるのである。

※1 私は迂闊にも大学から彦根城の天守閣が見えることを今の今まで知らなかった。今回、特別意味もなく、大学構内を歩いていたら、遠く上方に何やら家のようなものが見えるので、一体何だろうと、思ったら、天守閣であった。しかも、良く見えるのは大学の本部正面玄関先からであった。考えてみると、私には縁のないところであったのだ。「道理で」と自分に変な納得をさせた。それだけでなく、当時の私が大学よりも、あるいは外なる世界よりも、自分の内側にいる御し難き自分、汚れた自分を持て余して、その精神は内側へ内側へと向いていた事実の一つの傍証かもしれないと思った。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_30.html

※2 あと二冊の本とは、『イースターの朝のできごと』(フランク・モリソン著)『海辺のキリスト』(ハンス・リルエ著)であるが、それぞれ本ブログで過去に紹介している。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/04/blog-post_05.html

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/11/blog-post.htm

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