2024年4月2日火曜日

復活の自由(2)罪の強制からの


彦根城の桜  2024 4/1
彦根はまだ寒く、彦根東高校の前あたりのこの一木だけが花びらを見せてくれました。今回旅行中で、iPad で入力を試みておりますが、やはり不便ですね。思うように入力できません。同窓会では、友人との貴重なお交わりが与えられました。まさしく、今日のテーマ「我、悩めるかな」とこの二、三ヶ月前に奥様に先立たれ、ひとりで「終活」に励んでおられる方と肝胆相照らす、極めて濃密な交わりを得ました。さて、ブログは昨日の続きです。

   復活の原理は、更に多くのことをする。

   私たちは罪のために、ただ罪の判決を宣告されるだけでなく、悪に誘われて行く。それでパウロは、その内的状態について、次のように言っているのである。「私には自分のしていることがわかりません。私は自分のしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことを行なっているからです。……ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(ローマ7:15、17)。彼ははっきりと、自分のしている事は悪であることを知っていた。そして、悪を避けて正しい事をしようとしたのである。言わば、彼はいやおうなしに罪を犯す。これは自分の力で誘惑に抵抗しようとするすべての人の経験である。そうは言うものの、罪の忌まわしい奴隷としてとどまることを避けようとすればするほど、ますます成功がおぼつかなくなり、自分の立場が耐えられなくなるということは、意外な成り行きと言わざるを得ない。この人物が、「私は、ほんとうにみじめな人間です」(ローマ7:14)と叫びだすのは、当然のことである。

   いったい解決策はあるのだろうか。

   ある。「いのちの御霊の原理」である。それは、よみがえりのキリストの力にほかならない。罪の原理がその力によって絶やされることはないであろうが、少なくとも、相殺され、損失が補われ、そして神の神の御霊の力によって、神の意志をなすことができるようになるのである。

   一つのたとえで要点を示してみよう。ある地所に、多くの木が植えられていたとする。土地は豊かで、肥沃であったが、木におおわれていたので、草ははえていない。所有者は、万策を尽くして芝ふを造ろうとしたが、だめであった。成長しないのである。失敗したのは、芝ふの種が無力だからでもなく、また、土壌に草をはえさせる素地がないからでもない。ただ、木の陰が濃すぎるうえに、木が土壌から、草の養分をも吸い尽くしているため、草を育てる養分が残されていないからであった。

   私たちについても同じ事が言える。復活のいのちの優勢な力は、罪の原理と相殺し合うばかりか、それを征服してしまうのである。後者は、依然として、私たちとともに存在を続ける。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにはありません」(1ヨハネ1:8)。罪は存在し続ける。しかし、神のいのちの力のために、それは押えられたまま、何をすることもできないのである。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。……しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです」(ローマ7:4〜6)

    復活のいのちをこのように当てはめることによって、私たちは、日々勝利を経験するのである。罪はなお私たちとともにあるかもしれない。それは、不信仰の瞬間には、私たちに失態を演じさせるかもしれない。しかし、内なるキリストにある新しいいのちは、その強制力から私たちを解放してくれるのである。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。……このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリストイエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ローマ6:6、11)

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