彦根城の桜 2024 4/1 |
復活の原理は、更に多くのことをする。
私たちは罪のために、ただ罪の判決を宣告されるだけでなく、悪に誘われて行く。それでパウロは、その内的状態について、次のように言っているのである。「私には自分のしていることがわかりません。私は自分のしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことを行なっているからです。……ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(ローマ7:15、17)。彼ははっきりと、自分のしている事は悪であることを知っていた。そして、悪を避けて正しい事をしようとしたのである。言わば、彼はいやおうなしに罪を犯す。これは自分の力で誘惑に抵抗しようとするすべての人の経験である。そうは言うものの、罪の忌まわしい奴隷としてとどまることを避けようとすればするほど、ますます成功がおぼつかなくなり、自分の立場が耐えられなくなるということは、意外な成り行きと言わざるを得ない。この人物が、「私は、ほんとうにみじめな人間です」(ローマ7:14)と叫びだすのは、当然のことである。
いったい解決策はあるのだろうか。
ある。「いのちの御霊の原理」である。それは、よみがえりのキリストの力にほかならない。罪の原理がその力によって絶やされることはないであろうが、少なくとも、相殺され、損失が補われ、そして神の神の御霊の力によって、神の意志をなすことができるようになるのである。
一つのたとえで要点を示してみよう。ある地所に、多くの木が植えられていたとする。土地は豊かで、肥沃であったが、木におおわれていたので、草ははえていない。所有者は、万策を尽くして芝ふを造ろうとしたが、だめであった。成長しないのである。失敗したのは、芝ふの種が無力だからでもなく、また、土壌に草をはえさせる素地がないからでもない。ただ、木の陰が濃すぎるうえに、木が土壌から、草の養分をも吸い尽くしているため、草を育てる養分が残されていないからであった。
復活のいのちをこのように当てはめることによって、私たちは、日々勝利を経験するのである。罪はなお私たちとともにあるかもしれない。それは、不信仰の瞬間には、私たちに失態を演じさせるかもしれない。しかし、内なるキリストにある新しいいのちは、その強制力から私たちを解放してくれるのである。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。……このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリストイエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ローマ6:6、11)
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