2024年4月24日水曜日

復活の熱情(2)最終的な権威


あちらこちらの街路のツツジの植え込みは、今時、赤と白で道行く私たちの心を弾ませてくれているのではないでしょうか。特に白色のツツジは、清楚な少女の出立ちをいつも思わされ、身を清められる思いが致します。

ところで、上記画面に見られるように、これまで堤上の桜の木々の下で、ひっそり出番を待っていた植え込みにも、陽が当たる時季がやってきたようです。赤いツツジが「こんにちは」と次々声をかけてくれるようになったからです。

赤いツツジの点描は、そのすぐ奥で、今を盛りとあたり一面に広がるタンポポの園とともに私たちに爽やかな笑顔を振りまくかのようでもあります。自然界は、一刻の猶予もなく、調和した美を私たちに提供してくれます。その自然の秩序は神様ご自身が私たちにくださっている大きな贈り物です。

今日の『キリストの復活』の「復活の熱情」にまつわるメリル・C・テニー氏の話は短いですが、世の権威にたちまさる主の権威がいかに最終的な権威であるかを語っています。その権威の熱情が如何なるものか少しでも知りたいものです。

二 最終的な権威の熱情

 伝えるに足るメッセージを持つということは、一つの事である。それと、メッセージを伝える権威を持つということとは、別な事である。セールスマンは、どんなによい品物を売り込もうとしているときにも、信用ある商社が自分の後ろだてとなっているということが確信できなければ、売り込みに熱心になることはできないものである。疑いと熱情とは、決して共存することができない。そうだとすれば、私たちがある重大な宣言ーー人は、そのメッセージを信じて救われるか、または、それを拒否することによって失われるか、二つのうちの一つを選択しなければならないという、猶予することを許さない重大な宣言ーーを携えて、海を渡り陸を越えて行くのは、いったいどのような権威に基づいてなのであろうか。

 よみがえりのキリストは、そのメッセージを伝えるにあたっての権威であられる。ペテロとヨハネは、足のなえた男をいやしたあとで、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」(使徒4:7)と尋問されたとき、こう答えた。

民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。(使徒4:8〜10)

 復活は、イエスを、地のあらゆる権威の上にある神の右手に高く上らせた。それで彼の弟子たちは、自分たちを地上における彼の代表と考えて、彼らを沈黙させようとした彼以下のあらゆる君主たちや議会を、公然と無視する態度に出たのである。

 よみがえりのキリストは、語り手の伝えるメッセージを保護する権威でもあられる。彼が彼らに与えられた言葉、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と、増長したピラトに対する彼の返答、「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたがたはわたしに対して何の権威もありません」(ヨハネ19:11)とを比べていただきたい。御父が御子に対して、その働きが完成するまで、その身の保護を保証されたように、キリストは、彼の事業のために彼に従う者たちが出て行くとき、その安全を見守られるのである。キリストは彼らのために、獄屋のとびらをあけ、官憲らの裁判を導き、刑執行人のおのをそらせたもう(※)。弟子たちは、主がご自身のメッセージを尊重されると信じていたので、彼の名において、不可能事に敢然としていどんだのである。

※引用者註 著者が「キリストは彼らのために、獄屋のとびらをあけ、官憲らの裁判を導き、刑執行人のおのをそらせたもう」と要約している聖書個所はいったいどこの個所であろうかと思って調べたが、差し当たり、次の個所などが考えられるのではなかろうか。使徒5:22を中心とする前後の聖句。そして使徒12章。いずれもペテロが経験していることではある。ペテロはその「熱情」においては弟子中第一番であったが、主の預言(ルカ22:31)どおり、結局は主を裏切らざるを得なかった。その彼が復活の主に出会い、ペンテコステ(聖霊降臨)を経験し、全く別人の人となって、サンヒドリンでの尋問に対した。それは、まさに最終的な権威の熱情、「主イエスの熱情」に支えられてのことだと思わされた。繰り返しになるが、上記の最後の言葉「弟子たちは、主がご自身のメッセージを尊重されると信じていたので、彼の名において、不可能事に敢然としていどんだのである。」とは千金の重みを持つ言葉である。

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