2024年4月1日月曜日

復活の自由(1)罪の宣告からの


昨日、本日4月1日に開催される大学の同窓会に出席するために、1日早く、彦根駅に降り立った。駅前の百貨店の垂れ幕に驚いた。私たちの同窓会をこんなふうに前日から歓迎しているのかと一瞬思ったからである。そんなはずはない。今日再び駅前に降り、見たら右の垂れ幕、すなわち「彦根高商云々」の垂れ幕はなかった。要するに、昨年度、町を挙げて祝賀行事をやっていたんだろう。100年前の「高商」の誘致には地元の熱い希望、支援があった。その行事も昨日の3月31日で終了したということであったのだろう。ところで、同窓会の出席者は40名であった。141名が同窓生総数である。物故者は年々増えていく。かつて本ブログに何度となく書いたように、この大学なかりせば、今の私はない。感謝と自戒の念を込めてて昨日の続きをお贈りする。

そういうわけで、以下の文章は、昨日に引き続き、『キリストの復活』からの引用である。

こういうわけで、今は、キリストイエスにある者が罪に定められることは決してありません。(新約聖書ローマ人八章一節)

    前の章(7章)で、パウロは、人間は外面では正しく見えるかもしれないが、内面では罪の法則の奴隷であることを指摘した。彼はある程度は、自分の衝動の表現を抑制することができるであろうが、とにかく、内的な悪しき心の動きを抑制することはできない。そのうえ、言うまでもなく、「聖なる、正しい、良い」律法が、これらの罪への欲情を、いっそう刺激するのである。パウロがここで、結果を生むものとして引用している戒めが、殺人や姦淫や盗みを禁ずるものではなくて、むさぼりを戒めるものであることは、深長な意味を持っている。それは、内的な殺人にほかならないのである。殺人は目に見えるが、むさぼりは見えない。 

    したがって、罪とは、人が犯すある特定の行為ではなく、本質的には、彼のものであると言われ、また彼を罪の宣告に悩ませる、内的な動機をさすものである。行為の流れは、すでに源において汚されている。そして神はそれを、罪に定めておられるのである。「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある人間です」(ローマ7:14)。動機や意向が完全によいと言えるような状態は、もはや決して望むことはできない。よさそうに見えても、裏面に悪を隠しているか、または、いっさいが不正であるかのどちらかである。罪はそのままでは、純潔な実体の中にはいり込んで来た単なる異質的なものではない。それは、人間の全存在を毒し、腐敗させる伝染力である。この事実のために、私たちは、永遠に失われてしまう者と定められているのである。それゆえ、恵み以外の何ものも、私たちを救うことはできない。腐った果実の中にも、どこかによい所があるように、悪人にも、どこかによい所はあるであろう。しかし、悪は結局その「よいもの」に風味をつけてしまうので、それは実用には役だたないものとなってしまうのである。

    この事態を改善することのできるただ一つの望みは、古きを駆逐する新しいいのちの導入である。救いーーまたは救いの主観的適用としての聖化ーーは、実に、死人の中での復活のいのちの活動を意味するものである。罪に対処するには、それを死に至らしめる以外に手はない。新しいいのちが、その立場を得なければおならないのである。

ある人が罪を犯し、死刑を宣告されたとしよう。刑が執行され、医者が死を公示する。そのあとで彼に新しいいのちが注入され、彼は再び立ち上がり、この世での生活を再び始めるところまできた、と仮定しよう。彼は死んでいるのであるから、法律的には、古い宣告の束縛を受けることがなく、新しいいのちは、彼に、新出発の保証を与えているのである。彼はもはや、古い宣告の下にはいない。彼はまさに新しい生活を始めることができ、しかも、昔の記録に煩わされることもないのである。

    実は、キリストを信ずる人の霊的生活においては、このとおりの事が行なわれるのである。キリストの復活のいのちが、彼の新しい生涯の出発点となる。バンヤンは、キリスト者の生活を題材にしたあの有名な寓話で、巡礼者のクリスチャンが、滅びの町から神の町へ、どのようにして、その歩みを妨げる大きな罪の袋を背負い、疲れ、憔悴しきって、その道をとぼとぼと歩いて行ったかを物語っている。ついに彼は十字架のもとに来た。そして、彼が十字架を見上げたところ、袋は背中から落ちて、丘をころげ落ち、とある空虚な墓の中に姿を消した。そして彼は、二度とそれを見ることがなかったのである。罪がのみ込まれてしまったこと、そして彼がもはや罪の宣告の下にはいないことを意味するものであった。

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