アヴィニヨン橋 2006.11 |
1 約束に対する信仰
歴史を見ると、多くの指導者たちが口約を事としてきたことがわかる。そのあるものは成就されたが、他のものは不履行に終わった。イエスが現われて、教えをたれ、説教をし、いやしの奇跡を開始されたとき、その国の指導者たちは、彼に対してまゆをひそめた。彼はいったい、どんな権利があって民衆の指導者になろうとしているのだろうか。イエスに集まる人気をねたんで、彼らはついに、彼の信任状を人に調べさせた。
イエスは返事として、一言、次のように答えられた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)。(彼の敵対者たちは、言うまでもなく、彼を誤解した。彼らは、イエスがエルサレムの丘を飾る神殿をさしてそういわれたのだと思ったのであるが、彼が語っておられたのは、ご自身のからだとしての神殿のことだったのである)
また他の機会に、彼らがイエスにしるしを求めたとき、彼はこう答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」(マタイ12:39〜40)
このように彼は二度にわたって、ご自分の復活を、自分の身分を保証するものとして、無条件で、ご自分が死の中から再びよみがえって来ることを約束されたのである、
もし彼がこの途方もない約束を履行されなかったとすれば、私たちはすぐに、彼に対する信仰を投げ出してしまうであろう。それが条件付きの結局その場限りの予報であったなら、条件がぴったり合わなかったというような苦情を申し立てることもできたであろう。ところが、彼が二度までも、このできごとを自らその使命の至上の証拠また象徴と見る、と断言されたところからすれば、私たちは、彼の全約束に対する信仰はこの特殊なできごとの真実性に根ざしていると言うことができるのである 。
この信任状の主要性は、信仰を否定する世界の人々によっても承認されている。フランスの啓蒙期時代のことであるが、ひとりの男が、皮肉屋で無神論者のタレーランのところに来て、「わたしは新しい宗教を広めようと思っているのですが、首相としてのあなたの署名をお願いできませんか」と言った。彼はまた、自分の宗派のために、どうしたら大衆の支持を獲得することができるか、知恵を貸してほしいと頼んだ。そのときタレーランは「わたしならあなたに、自分を十字架につけ、三日目によみがえってみせることをお勧めしますね」と答えたと言われている。そうすることができれば、彼の成功は疑いなしだと言うのである。その人にそれをなす力がなかったことは言うまでもない。そして彼の新宗教は、そのまま忘却のかなたに流されてしまった。しかしイエスはまさに、死に、そしてよみがえられたのである。また、彼の約束は、彼が生きていたもうことによって、今でも効果を期待することができるのである。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。(新約聖書 ローマ人への手紙4章20〜21節)
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