今朝も新しい訪問客がありました。昨日の彼女の美しさに目を見はりましたが、今日の彼はより鮮やかでした。その上、花の間を離れることなく丹念に蜜を吸っていました。飛び石伝いという言葉がありますが、まさしく花園を飛び回る彼の姿はそうでした。
さて、「復活の効力」の最終項目は、からだに及ぶと、最後の復活に働くことは当然として、今生かされている生身のからだにも及ぶのだと、パウロの証を著者は深く読み込んでいます。
三 身体の効力
復活の力は、この現存のからだにも適用されうるものである。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ローマ8:11)
多くのよい注釈者たちは、この聖句を、最後の復活に対してだけ適用される言葉であるとしている。そうだとすれば、死から立ち上がるのは、「死ぬべきからだ」であるということになる。確かにそのような解釈は可能である。だが他方では、「死にやすい」という意味を持つ「死ぬべき」(ギリシア語thneta)という言葉が、なぜ、すでに死んでいるからだに用いられなければならないかについて、少し困難を感じさせられる。もし、神の御霊が宿っているのなら、なぜそれを、死体と認めなければならないのであろうか。なぜ、神の活動を、私たちの肉体に関するかぎり、未来の復活に限定しなければならないのであろうか。私たちは、ここで用いられている「死ぬべき」と「生かし」という二つの言葉が、コリント人への第一の手紙十五章でも使われており、そこで言及されているのは、明らかに最後の復活のことであるということを、認めるのをよしとする。しかし、この聖句の前後関係から、未来よりは現在に対して適用されるべきであるということは、明らかではないだろうか。「生かしてくださるのです」という語句を、ただ究極における肉体の更新をさすものとするよりは、ここでは、信者の現在の肉体生活における御霊の継続的な働きを描写するものと見るほうが好ましいと思われるのである。
もちろん、神のみことばは、現在のからだがそのまま不死のものとなることを保証してはいない。私たちの生存中に主が来られるのでなければ、私たちは、他の人々と同様、やはり地のちりに化さなければならない。しかし、この聖句は、明りょうに、内住したもう神の霊が、私たちにキリストの復活の力を適用させることによって、私たちの現在の肉体に新しい生理的な力を分与することができ、また、分与しようとしておられる、という意味を含んでいるように見える。御霊は、私たちが地上における神のためのわざをなし終えるまで、随時必要に応じてそうすることがおできになり、またそうして下さるのである。
パウロは、コリント人への第二の手紙において、彼がアジアにいた時のある経験に言及している。「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました」(第二コリント1:8〜9)。その経験がどんなものであったか、私たちは知らない。病気であったか、非常な迫害であったか、ほかの何かであったか、私たちには知らされていない。たいせつな事は、そのとき彼が自分を頼みとせず、「死者をよみがえらせてくださる神により頼んだ」ことである。そのために彼は、更に幾年もの間有益な苦労をすることができるように、救い出されたのである。彼の生涯は、この力によって生き抜かれた。なぜなら彼が、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(第二コリント12:9)と言われた神を信じたからである。
言うまでもなく、この力は、私たちに、罰を受けることなく神の生理的法則を無視した生活をすることを許すものではなく、また、むちゃな肉体の使用を保証するものでもない。しかし、私たちが、神の奉仕のため、また神の命令のゆえに、すべてを費やし、なおかつ弱さのゆえに自分にはこれ以上の事ができないと感ずるときに、御霊はその力によって、普通ならとうてい望みえないことをもなしうるように、私たちの肉体を更新し、その有用さを増して下さるのである。クリスチャン・ライフは、魂だけでなく、からだをも新鮮にしてくれるのである。
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