川堤 ひときわ目立つ 八重桜 |
さて、「復活の信仰」は、前回の「イエス様の約束に対する信仰」に引き続くもので、「イエス様の人格に対する信仰」とは何かを明らかにしています。風格ならぬ、人格にあらわれたイエス様の真骨頂を味わいたいものです。
二 人格に対する信仰
イエスがほんとうに死からよみがえられたのであれば、その事によって彼は、すべての人と区別されるべきである。確かに、死から蘇生した人は数多くいるであろう。しかし、記録で知られるかぎり、死後、イエスのようにその力を及ぼしえた者はなく、また、自分は死後、自らの力によってその生命を再び手に入れる、と主張した者はない。ひとりとして、自分の復活を予告した者はないのである。彼らが個人的に予期していたところからするかぎり、死からの復活は、彼らの生涯の完成を意味するものでも、予告しうるたぐいのものでもなかったのである。イエスの場合だけは例外であった。彼は死と復活のことを、友人の家庭を訪問する計画を果たすときのように、平静に、しかも確実な事として語られたのである。
旧約聖書の預言者の中には、イエスよりも長い説教の記録を残している者が大ぜいいる。また、量的な基盤に立てば、ユダヤ教の歴史の中で、イエスと少なくとも同列視される者もかなりいた。そのある者は、キリストの奇跡に匹敵する、幾つもの奇跡を行なった。それで人々は、イエスのことを、「エリヤ」か「あの預言者」ではないかと、いつも尋ねていたのである。なぜ彼だけが、イスラエルの預言者たちの偉大な相続人の中で、特に例外とされなければならないのであろうか。
答えは、彼自身の弟子たちの言葉によって知られるであろう。彼らも、預言者について親しく学んでおり、今日の私たちと同様、その言葉や意義を疑問視したことはない。彼らは、預言者が強大な勢力を持っていた国土、また、過去一世紀の私たちと違って預言者の時代以来文明にたいした変化のない国土に生きた者として、イエス以前のすべての預言者の主張とイエスの主張とを、非常に公正に査定することができたにちがいない。彼らはまた、イエスが、殉教の死を遂げた預言者たちとは違う最後を遂げられるとは思っていなかったであろう。彼らは、イエスの予告にもかかわらず、彼が死からよみがえることについて、針の先ほどの期待も持っていなかったからである。ところが、弟子の集団の中で最も信仰に動かされにくい、最も悲観的なトマスでさえ、復活のイエスを見たてまつり、主はまことに生きておられると悟ったとき、「私の主、私の神」と叫ばざるを得なかったのである。この言葉は、彼が、ナザレのイエスの内には他の預言者たちには望みえない神性が宿っているということを確信して、口にしたものである、と考えないかぎり、ユダヤ人の言うはずのない言葉である。パウロによれば、キリストは、「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」(新約聖書 ローマ人への手紙1章4節)である。彼が死の手に拘束され続けることは、不可能なことであった。死は彼に対して、なんらの権利も持たないからである。彼は、ちりにとらわれていることがおできにならないのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿