2024年4月27日土曜日

復活と不屈の精神(2)

今日は、これと言って良い被写体を見出せませんでした。その代わりと言っては何ですが、スケッチ帳に描かれていた一枚の絵を載せることにしました。絵の具でなく、クレヨンによる彩色の絵です。どう見ても古利根川とその川縁を描いたものと思われます。しかもこれからますます緑が濃くなっていく風景を描いたもののようです。筆致から推すと作者は家内のような気がしますが、本人は覚えがないと言うので、今となっては確かめる術がありません。

以下は、「復活と不屈の精神」の昨日の続きです。

 もちろん、キリストにある死人が、悪しき死人よりもさきによみがえらされるという点に、疑問の余地はない。ヨハネの黙示録20章4、5節は、このことを明らかにしている。

また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

 この聖句が与えてくれる解釈の可能性に関する興味深いわき道にはいらなくても、私たちは、それが二つの復活を含意していることを知ることができるであろう。第一の復活には、キリストのために苦難を経た人々が加わる。彼らは、以前にどのような不面目な敗北を味わったにせよ、いまやキリストとともに支配者となるのである。そして、彼らのよみがえりは、「第一の復活」と呼ばれる。この第一のという区別は、必ずしも、それがごく少数の選ばれた人々だけの特権であるというように解釈されなければならないものではない。それは、義人の死者の復活は、悪人のそれと非常な間隔をおいており、そのとき復活する人は、キリストの僚友として御国における統治権にあずかる、ということを意味するだけなのかもしれない。このような、不敬けんな人を除外しているという意味で、これは、「死人の中からの復活」なのであり、それはまた、信者の中でもある序列の差を持つものであると考えられるのである。

 それでは、このように遠い未来の事が、どうして現在の必要に適用されうるのであろうか。

 実は、ピリピ人への手紙は、この復活の希望によって意中に創造された不屈の精神を、具体的に実証するものなのである。パウロは今、二十五年またはそれ以上にわたって心身を打ち込んできた労を、突然中断され、獄中の人となっている。彼からわいろを取ろうという下心を持つローマの官吏によって、すでに二年間も留め置かれているばかりか、彼自身カイザルに訴訟を起こすことによって、のっぴきならない立場に追い込まれていた。彼は、ピリピ人への手紙を書いたとき、すでに相当長く、おそらく二年はローマにとどまっており、しかも、釈放される目安は、全く立っていなかったのである。釈放という観点からは、その第1章における彼の言葉は悲観的である。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています」(ピリピ1:23)。彼は公判にもかけられていなかったようである。しかも、結果は、全く予断を許さなかったのである。彼は宙ぶらりんの状態であった。今死のことを言ったのかと思うと、次には、ピリピ人のところに「とどまり」、彼らのところへ行く、と宣べている(1:24〜26)。本式の告発も受けず、未来の見通しもなく置かれることは、疑いもなく、彼の神経をすり減らすものであったろう。しかし、彼の活発な生活が突然中断され、未来が暗雲にさえぎられているにもかかわらず、手紙の全体は、喜びの叫びを強く聞かせてくれるのである。復活による不屈の精神は、入獄中のパウロに、絶えざる勝利をもたらしていたのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿