2024年4月15日月曜日

復活の信仰(3)目的に対する


年甲斐もなく、家の近くを走っている列車を、待ち構えて撮った。東武沿線に住んでいるので、鉄道マニアがよく線路沿いの柵にへばりついてはカメラを向けておられるのを何度も拝見してきた。まさか自宅において自分がそれらの人となるとは思いも寄らなかった。先週水曜日に日光に出かけたが、それはそれで目的を果たせたが、土曜日に「新美の巨人」という番組で「春の旅、日光江戸の美」とあったのでいったいどんな日光の風景を写しているのだろうかと期待して見た。ところがその番組名には続きがあった。「列車東武鉄道スペーシアX」とあったのだ。うっかりこれを見落としていた。だから、私の期待に反したものであった。第一「青春18切符」利用の日光行きとスペーシアX利用の日光行きとは土台、出発点からして条件が違っていた。

もちろん、かと言ってその番組を見たことがそもそも全面的に無駄だったわけではない。私の知らない世界を知ることができたのは有益であった。それだけでなく、次男の勧めもあって日曜日の夜には情熱大陸という番組で「特急やくも箱根遊覧船斬新なデザインと内装」という番組まで視聴するハメになった。スペーシアXにしろ、特急やくも箱根遊覧船にしろ、様々な社会の必要を考慮しながら、作品は誕生しているのだ。デザイナーはその一翼を担っているのだと理解した。

イエス様は目的をもって、33年というその短い人生を終えられた。しかし、そこには〈復活〉という大きな目的があった。その目的はすべて私たちのためであった。短いながらも下記のメリル・C・テニー氏の叙述はそのことを明らかに示している。

三 目的に対する信仰

 イエスの地上の生涯は、短くはあったが、目的とかみ合わされていた。その目的を彼は、弟子たちがあの偉大な告白によって、彼をメシヤまたは神の子として見るという態度を確立したすぐあとで、彼らに宣言された。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられなければならないことを弟子たちに示し始められた」(マタイ16:21)。彼の言葉づかいは、死と復活とが彼の生涯の主要目的であるということを明らかにしている。同じ印象は、福音書全体の構造からも感じさせられる。と言うのは、彼の生涯の最後の一週だけに、記者たちの叙述の三分の一がさかれているからである。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)。

 彼は、ご自分の死が、人間の運命に独特な効果を及ぼすということを教えられた。だが、彼の死が、道徳的な価値において、他のいかなる宗教の教師の死よりも大きいのはなぜか。同じ事は、ソクラテスについては言えないのだろうか。彼はその命を、人類の進歩とアテネの青年の利益になるように、ささげたのではないか。イエスがただ死なれただけであったなら、その死は、殉教者の死、または時代に先んじた一預言者の悲劇的な最後と受け取られたであろう。しかしそれでは、罪人の救い主のあがないの死と呼ぶことはできないのである。あがないは、死んだ者の価値に基礎を持つものであって、死の事実によるものではない。そして、復活によって証拠だてられるような彼の人格の特異性こそ、彼の死が単なる英雄的行為ではないということを、はっきりと立証するものなのである。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(ローマ4:25)。 

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(新約聖書 エペソ人への手紙2章8〜10節)

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