名残惜し 航跡さやか 鴨夫婦 |
死人をその足で立たせようとした、ある昔のローマ人の話が伝えられている。彼は、むだな試みを何度もくり返したが、とうとう愛想をつかして投げ出してしまい、こう言った、”Deest aliquid intus"ーー「ふぬけめが!」。死体に必要なのは、支柱ではなくて、新しいいのちである。新生していない人に必要なものも、目新しい人生観ではなく、内的な動力でなければならない。
この必要な動力は、キリストにおいて供給されている。神のいのちが死の力を殺し、キリストを墓から復帰させたように、それは、私たちすべての中に働いている罪の力を殺してくれる。イエスの復活後にも、死はこの地上から姿を消してはいない。しかし、いまや私たちは、それが打ちのめされた冥加の尽きた敵であり、その運命をのがれることのできないものであると言うことを、知っている。キリストが死を征服されたので、それはもはや無敵ではなく、最後には完敗を喫しなければならないのである。罪は依然として私たちにまつわりついている。私たちから除去されてはいない。しかし、復活のいのちは、その力を中性化させて、私たちを新しい者とすることができるのである。救いとは、単なる死体の改善ではなく、復活である。
それだけではない。新生以前に絶やされた一生命の生き返り以上の、全く新しいいのちの創造を意味するものである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(第二コリント5:17)。新しい動機、新しい習慣、新しい見方、新しい欲望ーーすべてが彼の内に創造され、彼は、新しい活動に従事し、新しい目標に向かって前進する者となるのである。パウロはしばしば、「新しい人」という言葉を口にする。それは、復活の力が彼の内に作用して、その人格を全く新しい内容のものとする、ということを意味している。
この力は、ある人たちに対しては、直ちに、目をみはらせるような効果を現わす。だらしのない無知が、旺盛な知識欲に道を譲る。無愛想な自己主義が、犠牲的な愛に変ぼうする。道徳的面での腐敗は、清潔に変身し、不正直は廉潔になる。その人の存在がすっかり別のものになったのであるから、彼の変化をだれもが認める。
他の人々の場合は、その効果がこれほど目を引くものではないかもしれない。しかし、だからと言って、それが現実的でないというわけではない。常にある体裁を保ってきたために、外的行為に急激な変化が認められることはないであろう。しかし、与えられたいのちに相違はない。過去に犯した罪からであろうと、未来に犯すかもしれない罪からであろうと、救いの力と不思議さと純粋性とに、相違のあるはずはない。復活の効力は、その人の霊性の実りによって明らかである。
新生によってこのように新しい人が創造されるとすぐに、その人は、自分が生活の新しい場を必要としていることに気がつく。ひよこが、孵化の瞬間、殻を破って、外部の光と空気の世界に出て来るように、キリスト者は、魂にキリストの復活の力を受けるとき、新しい生活の場にその足を踏み出すのである。ローマ人への手紙六章は、この点を、罪に対して死んだ者はもはやその中に生き続けることはできないという表現によって、明らかにしてくれる。なぜなら、
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)
復活した人は、復活のふんい気を必要としている。わしが、家禽(きん)といっしょに納屋の前庭で遊ぶ生活に満足できず、山の高峰や、空気も希薄な光り輝く大空に舞いかけるように、私たちも、ひとたび罪の死のさまから起こされると、罪深い交際や環境に満足できなくなるのである。私たちは、神に向かうように起こされたのである。
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