2024年4月9日火曜日

復活の事実(5)

花曇 桜下の詩歌 誦じる
今日は、天気予報どおり、朝からすごい雨、風である。それを見越して昨日は古利根川沿いの桜並木を、花見を兼ねての散歩に励んだ。日曜日ほどではないが、たくさんの方が桜の木の下で、それぞれ思い思いに筵を延べては舌鼓しつつ会話に興じておられた。また、いつもになく、キャンバスに向かって絵筆を走らせる方々が数人おられた。もちろんカメラを手にして桜を懸命にとらえておられる方があちらこちらに散見された。当方も一枚だけ撮影した。改めて桜の花びらの麗しさにうっとりさせられた。やはり桜は日本の至宝である。
『キリストの復活』の証言は続く。タイミング良く、某大学の入学式の様子をYouTubeで拝見した。院長なる方が、新入生に、平易な言葉で「世の光、地の塩」たらんことを期待する告示を述べておられた。このミッションスクールの存在も、言うならば、本日の四 教会の起源の証言にふくまれると言えなくもない。

三 殉教者の証言

 証言は、価値という観点から言えば、決して証人の人格を上回るものではない。この点で、これらの証人たちは、どれほど確固としたものを示すことができたであろうか。彼らのあかしを掲載している記録そのものは、彼らが、復活が芽ばえさせた信仰のために、あらゆる窮乏に耐えたことを物語ってくれる。石うち、むちうち、投獄、国外追放、貝殻裁判、財産没収など、あらゆる種類の虐待が彼らの分け前であった。しかもこれは、彼らの説教の受動的な効果、彼らが予期せず、その前から逃走しなければならなかったような一つの結果だったのではなく、まさに、彼らが慕い、その所信を宣べ伝えるために、当時の官憲の面前で公然といどんだ戦いだったのである。

 しかし、これに対しては、彼らは他の場合と同様狂信者だったからしたまでで、狂信者であれば、事実の裏づけを持っていようといまいと、どんなことでも主張することができたのだ、という反論が申し立てられるかもしれない。まさしくしかりである。しかし人は、自ら真理と信ずる虚偽のためになら死んでも、自ら虚偽であると知っていることのためには死なない。もしイエスが決して死からよみがえられなかったのなら、彼らは、その事を知る機会に何度か巡り合っていたと思われる。イエスのからだが十字架からおろされてから七週間たったときに、彼らはエルサレムの町で、このイエスがよみがえられたことを大胆に説き、しかも、この主張のために、生命と自由と名声とのいっさいをかけていたのである。歴史の記録の中には、イエスの敵が彼のからだを作製したとか、また、その敵対者たちが、そのからだは依然として墓の中にあったのだということを証明する具体的な証拠を持っていたとかいうことをにおわせるものは全くない。もし、イエスの友人たちがからだを移動させたのであれば、それをにおわせるようなうわさが、線香の火花ほども立たず、イエスに最も身近な従者たちの説教を脅かさなかったというのは、どういうことであろうか。彼らは、復活を宣べ伝えるとき、その不正直によっていっさいを喪失しても、得るところは何もなかったのである。彼らが虚偽だと知っている事を故意に宣べ伝えたのだと信ずること、あるいは、彼らがその名声、同郷人の中での立場、また自由のすべてを、このある不確実な事のために犠牲にしたのだと信ずることは、イエスはよみがえられたという彼らの主要な主張を事実として承認することよりも、より大きな努力を要するものである。

四 教会の起源による証言

 キリストのからだごと死からよみがえられたかどうかという問題に対する態度とは無関係に、キリスト教会の存在は、すべての人の承知しているところである。歴史家、不可知論者、キリスト者のいかんを問わず、教会が十九世紀という長期間にわたって、社会、経済、政治、宗教的な世界の動きに、強力な影響力を及ぼしてきたことについては、異論がない。そして、この種の精神的運動には、すべて、あるはじまりがある。回教は、マホメットの個人的な影響力と教えにまでさかのぼることができる。仏教も、悉達多、釈迦牟尼の教えをまって発生したものである。キリスト教と、なんらかの意味で並列されるものすべてについて、その運動のそれ自体に関する証言は、その発生の説明が求められている場合には、まじめに考察されている。もし、キリスト教についてだけそれができないとすれば、私たちはどうして公正であると言えるだろうか。もしこの運動が、他のすべてと比較して独特なものとして、キリストの復活に起源があると主張しているならば、私たちは、復活を否定するとすればキリスト教を十分に納得させてくれる他の理由を見いださなければならない。

 キリストの復活を信じていない歴史家たちも、この事実は確認している。キリストの肉体の復活を信じてはいないが、その学問的見識においては疑義をいだかれたことのないF・J・フォークス・ジャクソンは、その著書「異邦人キリスト教の興隆」において、次のように述べている。

イエスが死に渡されたもうたのちに、墓からよみがえられたということは、疑問視されるかもしれない。しかし、すべての人は、彼の直接の従者たちが、彼がまさによみがえられたと信じていた、という命題には、同意しなければならない。また、最も初期のキリスト教文書が著される以前から、この事は、その集団の公認の所信であった。事実、復活の信仰なくして、宗教としてのキリスト教が存在しはじめることは決してなかったであろう。

 この信仰の原因はなんであろうか。復活を宣べ伝えた人々は、心理的な巧みをもてあそんだり、哲学的な白昼夢にうつつを抜かしたりしているのではない。彼らの経験の中には、このような革命的な主張をするようにと彼らに迫る何ものかがあったにちがいないのである。もし、一度この復活という単純な事実を認めさえしたら、すべては明白になる。そうしなければ、私たちは永久的な難題をかかえ込まなければならないのである。それとも、復活が私たちの直接経験しうる事柄の範囲外の事実に属するということのゆえに、その発生事実の確かさを認める代わりに、復活を否定する不確実さを採るほうが、より合理的だと考えられるのであろうか。

私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。(新約聖書 ペテロの手紙第一 1章16節)

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