2024年4月11日木曜日

閑話休題

「石」を図案化した街灯から山並を仰ぐ(鉢石町)
 昨日は、この写真の左側にある山を綺麗に撮影したいと思って出かけた。私のところから中々見られないので、是非近くで撮影したいものだと胸膨らませて出かけた。ところが、近づいても肝心の山頂にはなぜか雲が常につきまとい、残念ながら撮影できなかった。代わりにその右側のこの山容で我慢しなければならなかった。

 もう一つの期待があった。それは昔お世話になった家をもう一度訪ねて見たいという思いだった。駅から上り勾配の大通りを、かつて路面電車が走っていたころを思い出しながら、歩いたが、すっかり往来が変わっており、こちらの記憶も定かでなく、中々場所がつかめなかった。17年前にこの家の最後になる方の葬儀に来た当時(※)とはすっかり変わっていたのだ。やむを得ず、往来の図書館にはいって、司書の方のお手を煩わせることになった。おかげで場所はすぐ知ることができたが、お家はすっかり新しくされていて、昔の面影はなかった。また、突然お訪ねしたので、玄関先で短く挨拶をして帰って来た。

 途中、多くの外国人観光客と混じって、歩きに歩き、何度も上り下りしたが、ほとんど疲れを感じなかった。手元のApple Watchが普段のエネルギー消費量の倍だと表示を出したのに驚いたくらいだった。もう少し長くいたかったが、昼間の晴れ間が少しずつ崩れ、雲が空を覆うようになり、ひんやりして来たので帰宅を急いだ。そう言えば山岳のこの地の天気は崩れやすかった覚えがある。

 こうして我が「消化切符」の一日は終わった。終えてみて、この地を選んだ思いを改めて問わざるを得なかった。そして、自分自身がこの地から遠ざかることはあっても、決して近寄ろうとはしなかった過去の自らの所業に気づかされた。しかし、そんな私の忘恩の態度にも関わらず、今はいないこのお家のお一人お一人の愛を受けて、今の自分があるのだという感謝であった。

 1966年(昭和41年)夏に、関西からはるばるこの家に泊めてもらいに来て、教員採用試験の準備をし、受験し、合格できた。それは元々、私の実家から、この地の酒屋に嫁いだ方がいるという、家が取り持つ縁が始まりだった。血は通ってはいないが、そんなことはお構いなしに関東に不案内でかつ滋賀の田舎者を手厚くもてなしてくださった恩を新たに感ずることができた。  

 そして全く不思議なことに、それはこれとは無関係に、家内がまだ私を十分に知らないときだが、翌年の1967年(昭和42年)の夏にこの地の山裾の奥地にある湖のもとで行なわれたバイブルキャンプにやはり関西から出席して、彼女の人生を180度変えられていた。いやー、それだけでなく、江戸時代、彼女の出身地の滋賀県犬上郡甲良町の甲良豊後守(こうらぶんごのかみ)・宗広(むねひろ)がこの地の社殿の棟梁であったことを思うと、この土地が私たちにとって特別縁の深い土地だったと思わざるを得ない。

 私はかつての自分が、人を恐れ、神を愛することなく、この家の人をふくめ「後退(消極)の人生」を送ってしまったように思えてならない。そうではなく、いつも置かれている環境の中、精一杯、神を愛し、人を愛するように、今更でもないが「前進(積極)の人生」を歩ませていただきたいと思わされて帰って来た。

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/01/blog-post_28.html

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが、主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(新約聖書 ローマ人への手紙 11章33〜36節) 

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